シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

性欲の捜索願い

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 十代、二十代の頃には、悪友以上ドラッグ未満の煩わしき煩悩であった性欲も四十前後あたりから、ふとその所在がわからなくなることがある。昨日までそこにいたのに、目が覚めていつもどおりに過し、仕事の合間にふと息をついたときなどに「あれ? あいつ(性欲)どこ行った?」と気づく。探しても、なかなか見つからない。うっちゃって置くと、そのうちに帰ってくるのだけれど、それもいつの日かとうとう帰ってこなくなる。そして途方に暮れる。見慣れない服を着て出ていかれたみたいに。しかし、そこに注目すると、不在の存在感は少しずつ大きくなる。そして性欲ってどんなんだったっけ?とその面影がぼんやりしてくる。

 

 そういうことについてそこそこ不安を覚えますって話である。

 

 人生のトラブルの多方が、金と色恋なのだから、その片方の問題から開放されるのだから、むしろ喜ばしきことに思えるかもしれない。しかしなんとなく、直感的に「あったほうがきっと良いはず」という気分のほうが強い。経済や政治などのプラクティカルで触れられるほど明確なものは、その必要性を言語化するのは容易いのに対して、芸術の有用性は、どうしても歯切れが悪くなるのに似ている気がするからこそか。うまく言えないけど、有ったほうが絶対良い、そう直感は具申してくる。

 

 そこでちょっと考えてみることにする。考えてみるのは、1.性欲の存在意義(レーゾンデートル)、2.失うとどうなるのか、3.行方不明にさせずにずっと側にいてもらうためにできること、の3つ。

 

1.性欲の存在意義(レーゾンデートル

 ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』という本によれば、恋愛と贅沢が資本主義を形成してきた、というようなことが書かれてる(まだ読んでいる途中)。実際、宝飾品とかハイファッションブランドや高級車など、その産業を支えているものには、恋愛的な動機(つまり根源的には性欲)が大いに含まれていることは想像に難くない。異性に好かれなくても良い人間が、素敵だけどなかなか良い値段のする香水や数十万から数百万(リシャール・ミルとかになると桁がもっと増える)する腕時計をするだろうか。もちろん自己実現とかヴァニティとかいろいろ動機候補があるけれど、それでもやっぱりモテたい、素敵に思われたいという気持ちが、僕らの経済活動の原動力の、少なくとも一部は形成しているはずである。

 

 経済としてなかなか重要なファクターであるのみならず、けっこうシンプルに僕らの生活においてドキドキしたり、ワクワクしたりするこもごももまた性欲を滋養として生まれているはずである。電車の向かいの席に魅力的な異性がいたら元気になるし、そういう魅力的な誰かと親しくなりはじめたら、世界がより良くなっていくような単純肯定的な未来感に身を包まれるはずである。

 老人介護施設のなかで売春(といっても手を握って眠るだけ)を禁止した途端にバタバタと老人たちが死んでしまったなんて話を(たぶん渡辺淳一氏の話かなにか経由で)耳にしたこともある。トキメキとかドキドキとかは、思っている以上にずっと僕らの人生に大切なのだろう。結婚していようがいまいが、何歳だろうが、性欲を活力としたトキメキを求める力を見くびらないほうが良いはずで、それは目の輝きや肌の張りや明日への活力を作っている。

 

 だから性欲はあったほうが良い。

 

2.失うとどうなるのか

 それがともすると、減衰して霧散してしまう予感を感じるわけである。歳のせいなのか。夫婦仲が良くても、性欲なしであれば、そこには潤滑のような「てきとうにうまいこと収める力」が損なわれるのではないだろうか。異なる人間が一緒に生きていくなかで生まれるささやかながらも確固として生じかねない軋轢は、概ね満足のいくセックスで消化されえる。「だって好きだもん」という類の乱暴な好意で、小さな問題は看過されるそのダイナミズムってすごく大事である。マーケティングよりも単純に魅力がすごくある商品が上位にあるように、「だって好きだもん」という強引な力は、けだし世界を前に進める力がある。性欲を失うと、この「だって好きだもん」という力も失ってしまう。

 日本は、海外よりもずっと夫婦の「家族化」が顕著な国に思う。欧米諸国の文化のほうが、歳をとっても異性同士として付き合い続けるように見える。比較はともかくとも、夫婦はできるだけ長い間異性として付き合っていたほうが良い。上記の「だって好きだもん」力についても有効だけれど、その人自身から発せられるオーラというか気配にも女として、男として満ち足りていることが表に出る。

 それを根拠に思うのだけれど、パートナーがいなければいないで、性欲がなければ、やはりその人の魅力も一緒に減衰していくだろう。視座を外から移せば、人が魅力的に見えるか見えないかって、いいかえると「美味しそうかどうか」って感覚に近い。まだ口にしていないけど、きっと美味しいはず、という食べ物は魅力的で、人もこの人と親しくなったら、ワクワクドキドキしそうという気配がすなわち魅力ではないだろうか。その気配は、性欲がその人の哲学やら美学やら性癖やらスタイルを経由して表に出たものである。だから性欲そのものを欠いては発せられない。

 要約すると、性欲がないと人は魅力を失くすし、人生も味気ないものに変容してしまう、ということになる。けっこう大事なものだ。

 

 

3.行方不明にさせずにずっと側にいてもらうためにできること

 それは単純で、つまり「性欲というものを肯定した上でなおざりにしないこと」に尽きる。ハリウッドのセクハラプロデューサーの悪行露見とか多くのスキャンダルとかが、宗教的な先入観を強化して、「性欲悪し!」という思い込みかねないが、上記の通りすごく大事な活力である。だからそういう先入観をちゃんと一回捨てて、やらしいことをしたがたる自分というものをOKと受け入れることがイニシャルな要諦になる。みうらじゅんさんか中島らもさんのどちらかが言っていたけれど、当事者たちが合意なら全てノーマル(アブノーマルじゃない)。細かい例外を断ったりしないけれど、単純に自分にとって大切なものを大切なものとして認めることから始める必要がある。人口抑制機能など社会学的にはタブーというものも大事なのだけれど、それは社会にとって大事なのであって、個人にとってはそうではない。価値観というものは、ときどきリストラクチャーする必要がある。

 そうしたら次に、自分の性欲を(性欲と言うほど直接的なものでなくても良くて、ドキドキすること、ワクワクすることと言い換えてもよい)なおざりにしないように努めるに尽きる。「なおざり」とは、「注意を向けずにいい加減にすること」である。(ちなみに「おざなり」は「その場限りの間に合わせの対処」という意味。どっちもいい加減にするという意味だけれど、おざんりは多少は何かするのだが、なおざりは何もしない。)

 女性なら、どうせ誰にも見せないしとか考えて下着を疎かにしはじめるとたぶん近い将来、女ではなく「人」になっていく。男もそうで、異性に対してより良く思われたい、より良く接したいという気持ちを捨てるとやはり男ではなく、ただの「人」になっていく。つまり性欲を大切に扱うということは、自分を異性に対して魅力的になるように磨き続けることを意味する。太っているなら痩せたほうが良いし、いい匂いでいるべきである。本を読んだほうがいいし、楽しく生きていたほうが良い。ビジネスでの成功と性にまつわるいろいろとはトレードオフではない。スティーブ・ウォズニャックっぽく言えば、バイナルではない。パートナーがいようがいまいが、自分の考える理想の自分というものに近づこうとすること、それが性欲をなおざりにしないということになる。

 

 これはきっと自分個人の問題に終わらない。世の中に魅力的な人が増えれば増えるほど、世界は魅惑的なものに向上していくはずだから。