シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

普通という名の鐘が鳴る

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 「普通ということについて書いて欲しい」という声をいただいたので書いてみる。

 

 結論から言うと私たちが「普通」と口にするときは、必ずそこに歪んだ思念がある、ということである。普通というものは存在するが実存はしない。数字のゼロみたいなもので、概念としては有用であり、存在しているけれど、実際には無い。無いことが有る。禅問答みたいになってしまうけど、この言葉なしではとても不便になる。しかしよーく目を凝らすと点描画みたいに緑に見えていたものが、実は青と黄色の点であるように、普通がないことに気づくことができるはずである。

 

 私たちは、「普通」という言葉を使うとき、見下すような視座から使うときと、自己肯定するときの拠り所として使うときの2つのシチュエーションがある。

 前者は「普通の人」などと口にするとき。自分たちは特別で、そうではない人々を「普通」でくくる。実際のところ、それがさして現実から遠のいていないことだって多々あるだろう。例えば芸能人同士の会話であれば、一般人のことを「普通の人」といえば、彼らとは明らかに異なるし、それに近い状況の会話もあろう。

 しかしその場合でも「普通」でくくった人々をよくよく観てみると、彼ら彼女らはほとんど普通ではないことが多い。というかどの側面を見るかによって変わってくる。容姿はかもなく不可もなく、収入もすごく多くも少なすぎもしない、中肉中背、でも性欲がすごい!という人もいるだろう。人の属性としてその側面などいっぱいあるので、何もかも平均値という人などおそらくそうそういないし、いたらその人は平均値すぎる異常値と言えるかもしれない。

 そもそも平均値というのも疑わしい値である。平均値の母数が正規分布なのかどうかだって確かめたい。よく三十代サラリーマンの平均年収なんて言い方を見受けるけれど、例えばサンプルが10人だったとして、8人が400万で2人が1,500万だとすると平均値は620万になる。10人中8人は「自分の収入は平均よりかなり低い」と感じるだろう。でも実際そういう歪みがあるはずである。また「サラリーマン」という属性を外した途端に数値も変わってくるだろう。雑誌やインターネットの記事に出てくる「平均値」に対して一回は疑ってみておいたほうが良い。そもそも母数の規模や選出をどうしているのかだって知らないままに私たちは普段から多くの「平均値」を見ているはずである。

 

 「普通」という言葉を遣うな!と言いたいわけではない。遣うたびに「普通」でくくった対象についてちょっと考える時間を設けられたいと言いたい。なぜなら次に語る2つのシチュエーションのうちの後者である「自己肯定するときの拠り所としての普通」がなかなか危険だからである。

 

 換言すれば、それは「常識」とも言える。みんなが当たり前だと思っていること、だと考えていること。その普通はなかなか怖い。例えばナチス(日本における人種差別よりわかりやすいだろう。でも日本人もまた結構な差別主義者であることが多い)。ナチスを私たちは、人間の歴史の直視しがたい汚点のように扱うが、彼らは選挙で選ばれた政党だったはずで、その是非はともかく彼らも彼らを支持した人々も、パラノイアではないという事実は、けっこう見過ごされている。つまるところ、それが私たちである可能性はおおいにあるわけである。精神異常者ではない人たちが、ユダヤ人に飢えた犬をけしかけて笑ったり、親の目の前で子どもを殺したりしていたわけである。もちろんナチスに限らずそんな歴史はいたる国々にある。十字軍だってひどいものである。彼らは、そのときそれが異常だとは思わず「普通」だと考えていたはずである。

 

 先日、邦題では「ドリーム」、原題では“Hidden Figures”という映画を観た。良い映画だった。人種差別が今よりも「あからさま」だった60年代にNASAで陰ながら活躍していた黒人女性たちの映画である。未だに人種差別はアメリカに根強く存在しているが、黒人(アフリカ系アメリカ人)を差別することが「普通」だったわけで、しかしちょっと立ち止まって自分で考えることができれば、いつの時代だろうが、それが普通だと考えるだろうか、否なんし普通ではない。それは変わらない。しかしみんながそう思うなら、それが普通になってしまう。社会の構造が多数が作り上げる圧力というものを含んでいるわけである。

 

 センメルヴェイス・イグナーツというハンガリー人をご存じだろうか。19世紀(たった200年前くらいの過去)の医師で出産で死ぬ母子の原因を接触感染だと看破した偉人である。医師たちに助産の際、手を洗うことを提唱するも理解されず、それどころか排斥され、終いには集団からボコボコにされて死んでしまう。そこまで否定された理由は、今まで産褥熱で死んでしまった人たちの死因が医師である、という事実を認めたくないというものだったそうである。今日では、それこそ「常識」であることが、たった200年前には常識ではなく、正しいことを唱えた人が殴打されて殺されているのである。

 

 そんなわけで、私は強く主張したいのだけれど、誰かが(そこには自分自身も大いに含む)「普通」という言葉を口にしたとき、常に注意深くなるべきだということである。それは本当に普通なのか。そもそも普通ってなんだ?という自問を自動的に発動されたい。

 例えばテレビである。過去と良く比較しているわけではないが、今の日本のテレビは私の目から見るといささか、いやかなり異常である。どのチャンネルをつけても情報番組はほとんど同じ事柄を同じように取り扱っている。加計学園とか森友学園、芸能人夫婦の不和、なんでも良いがテレビ局など関係なく同じアフェアを取り扱っている。正直おののく。でもテレビを日常としてみている人は、テレビが放送しているレベルであればある程度の真実が保証されている感覚が多少あるように思う。疑っていてもだんだんそれが常識になっているはずである。(「日本の」と断ったが、他の国のニュースはもっとずっと多岐にわたっているし、よりグローバルで、イギリスがスペインの、スペインがプエルトリコのニュースを報じている。しかし日本のニュースを観ていてもあまり他国のことを触れないし、いろいろな視点は提供してくれない。その様子は、まったく普通じゃなくて「異常」である。

 

 テレビ批判がメインテーマではない。ただの一例であるのだけれど、みんながそれを当然だと受けいれていても、何回かは疑って観たほうが良い。歴史を大いに鑑みて、疑ってみるべきだ。自分のことも含めて。そういいたいのである。

 

 その結果、煩雑な状況に自分は陥るかもしれない。でもやっぱり他者を人種で差別するのはおかしい。自分たちを擁護するために、自己肯定を脅かす、正しいことを唱える誰かを殴打して殺すのはおかしい。拠り所は、自分で考えて正しいと思えるかどうかということになるだろう。もちろん照らし合わせる自分が間違っていることだってある。だから教育というか教養は大切なのだけれど、それが故に歴史や知識を真摯に学ぶ必要があるのだけれど、まずは何より「一回、できれば数回、自分でちゃんと考える」ということをしたい。されたい。有名人が言うことを、いかにも正しそうな人がいうことを疑って自分で考えたい。とてもいい人そうな人であっても、その人の言うことが正しいかどうかは都度自分で考えたほうが絶対良いはずだ。センメルヴェイスは殺されるべきじゃなかったのだ。

 

 だから「普通」という言葉が出てきたら、いつだって警鐘として聞くべきなのである。