シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

いつも少し悲しい理由

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思うに、人生を十分に使い切ろうと思うならば、人生の終焉を常に意識するのが良いのだろう。でも実際にそれを実行するのは難しい。今日死ぬと思って行動するのも、明日死ぬと思って行動するのも、余命あと半年だと思って行動するのも難しい。実際にはいつ死ぬか分からないのだから、ついついどうしたって油断してしまう。

 

他人についてもそうだろう。彼らとはまた会えると思って接してしまいがちになる。二度と会えない可能性だってそうそう高くはないはずである。しかしときどきその人と会うのが最後になってしまうという経験をしてしまう。つい数ヶ月前にもそういう経験を僕はしたばかりである。癌でその人は亡くなってしまった。未だに快活なその人の声を僕は思い出すことができる。だから一期一会のように、このひとと会うのがこれが最後と思って接したいものであるが、それもやっぱり少しむずかしい。とは言え、自分の生命より他人の生命のほうが、その終わりを意識はしやすい。自分の寿命など、背中についた張り紙みたいに貼られていることに気づいたところで、なかなか見ることができないからよくわからないままだから。

 

昔はそうでもなかったのだろう。人の死はもっと頻繁だった。近代でも大きな戦争が2つもあった。その少し前なら衛生の問題もあるし、そもそも寿命も短かった。また社会階層は今よりあからさまであり、その分、ある種の人々の生命は安かった。奴隷も常識の中にいた。文化と時代が異なれば、老人や身体の弱い人間はけっこうあっさり殺された。そんななかであれば、人の生命の有限性を今よりずっと意識したことだろう。しかしアブラハム・マズローの欲求五段解説を参照すれば、人が求めるものは環境により変化する。生きるのが大変なころ、人々は自己実現より先に食べることや眠ることを求めるし、安全を求める。今のわたしたちが求めるものと過酷な時代の人々が求めるものは大きく異なっているだろうから、そう簡単には比較はできまい。生き残りをかけた競争の中においては自分や他者の有限性が、それすなわち慈しみになるわけでもないだろう。

 

現代の中で一番密接に大切なものの有限性を感じるのは、近しいもののなかに瀕死の方がいらっしゃるかたを除けば、犬、猫などの動物と一緒に暮らしている人たちではないだろうか。酪農家や屠殺に関わる人達もそうかしれないが、より身近な人たちのなかで言えば、そういうことになるだろう。日本の保健所において殺処分される犬猫の数は尋常ではないから、碌でもない飼い主も多数いるだろうが、彼らはこの話の対象外である。犬猫を虐待したり、殺したり、捨てたりする人を、僕は社会悪とすら思えず、単にクズだとしか思えない。そういう人間たちを集めてそこそこ不自由しない島に限定して暮らすようになれば良いのにと常々思っている。クズがクズ同士で社会を営めばいいのに。そうはいかないだろうけれど。それは今回の話のテーマではないので、ここでやめる。

 

犬猫と一緒に暮らす人たち。彼らの多くは自分の死より先に、慈しみ続けた犬猫の生老病死を体験することになる。僕自身数年前に、生まれるところから観てきた猫の死を見届けた。14年と少し生きただろうか。

 

動物を飼うというのは、なかなか不便なものである。旅行にも行きづらいし、犬なら散歩をしなくてはいけないし、猫だってご飯をあげたり、撫でたり、爪を切ったりしなくてはいけない。病気になったら病院に連れて行かなくてはいけないし、そもそも言葉を喋られないから、こちらが十二分に注意を向けていないと彼らがどんな状態か分からないままである。仕事の邪魔はするし、夜明け前に起こしてきたりする。「今日だけちょっと待って」という嘆願も聞き分けてはもらえない。癇癪を起こして乱暴に扱えば、容易に彼らは怖がり、ケガをして、なんなら死んでしまう。有り体に言えば、強制的に寛容さと愛情をもって接しなくてはならない生活になる。

 

そういうことを飼い主たちは、最初からではなく、一緒に暮らすなかで少しずつ学んでいく。事故や病気で夭折してしまう動物もいるだろうし、長生きすることもあるだろうけれど、いずれにしろどこかで犬猫の死を意識し始めたり、体験したりする。死が視界に見えるとき、やっぱりどうしたって彼らに対して僕らはベストの接し方をしなくてはいけないと強く思うようになる。どうしたら犬猫の人生の幸福度を最大限にできるだろうかと考えるようになる。そんなことをしているうちに身につく姿勢には、犬猫にかぎらず、人に対してもまた、寛容と愛情をもって接する傾向が含まれ得る。世話をしているつもりが、犬猫から飼い主たちは多くのことを学ぶことになる。人生の密度を濃くしてくれる性質を身に着けさせてもらうことになる。

 

しかしその一方で、犬猫を慈しめば慈しむほどに、その期間がながければ長いほどに、彼らを失うことを占いや予言など待たずに知っている飼い主は、可愛らしい犬猫の姿を見るときに、いつも少しだけ悲しい気持ちになる。無邪気に尻尾を振る犬の目や、床で伸びをする猫の姿に悲しみの影をみてしまう。つまるところ、何かを大切にするということは、そこに必ずペーソス、悲しみを抱くということになる。そしてそれが正しい在り方である。

 

僕らは、誰か大切な人を見るとき、いつもそこに悲しみが含まれているべきなのである。それが慈しみを育んでくれることになる。対象の幸福や喜びをできるかぎり最大値にしたいと願う気持ちが確固としたものになる。そしてそれを知ることができたら、次に、僕らはその目を自分に向けると良いのだろう。自分もまた死ぬということを大切な犬猫、友人、恋人、伴侶のいずれくる死を通して学習していく。それが生き方としてなかなかに自然で美しい流れに思う。「情けは人のためならず」とはこういう意味なのか。それはさておき、そんなわけで少しだけいつも悲しいことはとても良いことなのだ。