シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

恋という天災からの生き残り方

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恋に関することわざや格言みたいなものをみているとそのほとんどが「よした方が良い」という警句みたいなものである。そこには逆説的な前提を見ることができるわけで、「にもかかわらず」人は色恋沙汰に巻き込まれるものである、というのがそれである。酒やドラッグのトラブルは避けられるだろうけれど、色恋沙汰から逃れることはむつかしく、巻き込まれたら最後、無傷では帰ってこられない。だから警句がわんさかとあるのだろう。

 

「恋」という言葉に相当する英語は、たぶんない。恋と恋愛と求め合うものが形成する関係とをぜんぶひっくるめて“love”と呼んでいる。そもそも日本語でもこれらは概ね一緒くたにされているかもしれない。しかしここでは、これらを分けて定義したい。

 

恋は、視点が一人称である。誰か他者を求めているが、その人を得られるか得られないか不確かであり、そこにご執心してそれ以外は考えられない精神状態を言う。オブセッションである。不確かなまま互いに探り合う状態もまたそれぞれの恋と言えるが、視点は一人称のままである。それが複数あるだけである。精神的には異常な状態で冷静ではいられなくなっている。多少の差こそあれ。

 

恋愛は、もう少し穏やかであり、好きあい始めるところから、愛おしい感情を交換しあう状態までを意味するものである。視点は三人称に近い。恋との違いは、相手の感情が不確定である故に渦巻く不安と執心がないことである。

 

求め合うものが形成する関係、と長い名詞になったが、恋愛が二者の関係の発生期の状態であるのに対して、さらに落ち着いてパートナーと化した状態の、それでいて性的対象であり続ける状態として定義している。

 

 

さて、このような定義をして何が言いたいのかと言えば、恋というのはオブセッションであり、不健康であり、過ぎ去ったときに何かを奪い去っていくものであるにも関わらず、人は巻き込まれるものであるのだけれど、それは悪いことではないということと、とは言えこじらせれば死に至る危険もあるから、予後気をつけたい、ということである。野口晴哉という方の著書に『風邪の効用』という面白いものがあるのだけれど、風邪というものは身体に悪いものではなく、必要なものであるのだけれど、その扱いが大事だとという主旨の内容である。風邪をひいた後は、身体は柔軟性を取り戻すのだそうだ。60年くらい前の著書であるし、ことの真偽は定かではないが、なんとなく「そうかもしれない」と思わなくもない。風邪をひいて治ったあと、なんとなく身体が前より調子良くなっている気がしないでもない。もちろん気の所為かもしれないけれど、恋もこの考えに近いのではないか、と思う。熱に浮かされて、思うように行動できなくなるが、ちゃんと経過させれば人としてより丈夫になる、というかより良くなるもの、という意味において、しっくりくるアナロジーではないだろうか。

 

でも気をつけないと人生を台無しにしてしまいかねない。どう気をつけたら良いのか、という根拠なき示唆を提示したいのだけれど、その前に、恋というものはオブセッションであるにもかかわらず、身体に悪いものではない、ということについて語ってみたい。

 

恋というものがどのように発生するのかと言えば、ふとしたきっかけ(出会う、触れる、匂い、エトセトラ)で、自分より高みにいる存在を身体が補完する形で心が強く求め始めるときに発生する。いつでもなんらかの意味で、自分が思っている自分のポジションより高い場所にいる相手にである。原始的には、おそらく子孫繁栄の目的意識があって、より良い子を作るために至高の相手とつがいたいという動機だったのだろうけれど、社会的な生物として長い歴史を歩む中で、子供を作ることを必ずしも前提としない動機として独立した、と僕は思っている。しかし原始的な動機であるがゆえに、理屈ではコントロールできない。冷静な判断を奪うのは、冷静な判断などしていては、仕事などをそっちのけにして、手に入いるか分からない相手に多くの資源を費やすことが難しいからである。人間が、仕事ばかりに勤しんで、誰かを好きにならないなら、僕らは死滅してしまう。そんなわけで強い力で人は恋というオブセッションにときに巻き込まれるものである。それも不意に。若ければ若いほど予想外なタイミングで発生するが、年をとって賢くなっても、それでも抗いがたい力で巻き込まれ得る。こればかりは生き物として致し方ない。理屈を奪うオブセッションであるがゆえ、そしてそれは成就しようがしまいが、過ぎ去るものであるがゆえに、過ぎ去ったときには、何かしら大切なものを失うことが多い。時間かもしれないし、仕事かもしれない。はたまた家族かもしれない。「どうしてそんな馬鹿なことをするのか」と傍からは呆れられるのも恋の常であろう。しかしそれでも「良い」ものと考えるのは、陥っているときのオーガズムに似た高揚感を得られるからではなく、失った後に、人に深みを持たせるからである。恋の原始は、動物的な動機にあるが、その過程には、人は文学的な解釈を何千年という間に浸透させてきた。結果、それは芸術として再表現されるものになり、人は自らの経験と他者の表現との間で、憧憬と消失の体験を交換することができるようになる。シェイクスピア与謝野晶子の詩の意味を理解し、そこに美しさを感じ、歌を聴いては誰かを思い出す。香水や場所でも誰かと過ごした時を思い出す。そういう行為を通して人は、社会的生物としての人間として、深みを獲得していく。それは悪いことではないはずである。

 

その一方で予後に気をつけないと死にいたりかねないので気をつけたい。具体的には、憎しみと萎縮である。憎しみというのは想像にかたくないはずである。人が人を殺すとき、戦争以外では金と色恋沙汰によることが圧倒的に多いはずである。殺さずとも、振った相手や自分の恋人を奪った相手に対して燃えるような憎しみを感じることは多々あるだろう。

 

ちなみに付き合っている人が去っていくときにも恋のようなオブセッションに陥るが、それはともに「不確かさ」が生み出している。「得られるかもしれない」と「得られないかもしれない」の間にある不確かさと「失うかもしれない」という不確かさ。これらがオブセッションを生み出す力である。

 

憎しみという感情が、すべて悪いわけではない。必要だからわたしたちの中に湧くのであろうし、映画などのフィクションの多くは、憎しみを感情移入とプロットの原動力として利用している。しかし囚われてしまうと大切な資源である時間が多く奪われてしまう。そして人としての深みを得る良き経験であったはずの恋なのに、その後に生まれた憎しみに囚われてしまうと人は、思考が萎縮してしまう。偏狭になる。よく振られた後に「見返してやる!」という気持ちを原動力として立ち直る話があるが、見返してやれるほどに元気になったあとは、見返すことなど忘れているものであるし、それが良い。なぜなら自分を振った相手のことに使う時間は無駄だからである。

 

復讐というものは生産的なものではないことは理屈では誰もが理解できるだろうけれど、さはいえ、しないわけにはいかない類の蛮行はあろう。その例は、アクション映画から簡単に得られるはずである。しかしこと恋においては、復讐とか見返すことにほとんど意味がない。それでも溜飲が下がらない!ということもあろうが、そんなときはほどほどの手段で、下がるように工夫したいが、相手が「前の前の」恋人になったときくらいにはどうせ、あんまり思い出すことがなくなるのだから、やっぱりそこに執心しないほうが良かろう。

 

もうひとつの気をつけたいことである萎縮は、恋を経て傷ついた結果、恋をむやみに敬遠してしまうことである。「女なんて」「男なんて」と世界を一絡げに忌むというのは、ものすごくもったいない。こと恋に関しては、ある程度無反省はほうが良い。もちろん自分の中に「良からぬ相手に惹かれてしまう傾向」というものがあるならば、それはなんとかしたほうが良いだろう。しかし山田詠美氏の小説の中で「恋はすればするほど百戦錬磨のように強くなるのではなく、むしろどんどん臆病になっていく」というような言葉があったとおぼろに記憶しているのだけれど、そうなんだけど、あんまり臆病になってしまうと自分の中の魅力をすべて摘み取ってしまうことになる。

 

長くなったのでこの辺で筆をおくが、まとめると恋というの生き物としての人間なら避けがたいオブセッションであり、そこを経たときに多かれ少なかれ何かを失うものである。しかし失うことで別の何か(ここでは深みと呼んだ)を得る。それは人生の彩度を高めるものである。だから野口晴哉先生の言うところの風邪のように、ときおり経過させると良い。しかし予後で憎しみと萎縮には気をつけないと、その後の人生には色がなくなってしまうか、ときどき死んじゃうかもしれない。人を好きになって何かを失っても、うまく言葉にできない大切なものを引き換えに得ているということを言いたかったわけである。