シャンパンとホテルとそのあいだのこと

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心の鍛え方

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 前回、メンタルって大切ということを書いたので、今回はその鍛え方について書きたい。

 

 結論から言えば、「問題を発見して、それを単純化して挑みつつ、本を大量に読み、身体を鍛えて、たまに選んで人に会う」ということになる。分けて書くと

 

1.問題の発見 

 

2.単純化

 

3.本を読む

 

4.運動

 

5.人に会う

 

となる。

 

 そもそも「心を鍛える」というのは何を目指すものなのか。ということを先に明確にしておきたい。『岳』という山登りの読む人を元気にする漫画があるのだけれど、その17巻(18巻で終わり)にこういうエピソードが紹介されている。エベレストに挑むにあたって死を意識することも大事だが、それに囚われてはいけない、という格言めいた助言を補完するために紹介されたものなのだけれど、ある山で吹雪にあって下山できぬままに過ごすことになった二組があった。二組とも同じ山で同じ環境の元にあった。一組は、幾日も吹雪が去らない間、雪洞の中で皆「自分たちは生きて下山できるのだろうか、吹雪はいつ去るのだろうか」ということを考え続けて陰鬱と過ごしていたそうだ。手記により、それを知ることができた。もう一組(というか一人)は、「よく吹雪くねぇ」という体で、「何も考えずに」過ごし続けたそうだ。前者は皆死に、後者は前者の遺体まで回収しながら生きて下山したという話である。

 もちろんフィクションなのだけれど、なんとなく本当らしい気配がそこにあるように僕は感じた。心を鍛える、というのはこういうことなんじゃないかな、と僕は考えている。生き延びるための思考の在り方を身につける、ということだ。試合や勝負に勝つ、ということでも良いし、ビジネスで成功するということでも良いし、なんとかうまくやっていくということでも良いが、そういう主目的に対して、心の有り様を最適化させる……、いや「最適化」などと小難しく言わなくても良いだろう、「折れちゃわない」ということだ。しなってしまっても良い(一回逃げちゃっても、後退してもいいけど、先に進もう!という気持ちを持ち続ける)。

 

 僕は、レコード会社やカフェを経営してテレビにも良く出ている方の著書で、「落ち込んでも意味がない」という考えを読んで、しごく得心したのだけれど、それでも、ちょっとした刺激でミジンコにでもなってしまいそうなほど落ち込むことが多々ある。理屈でわかっていても、心がついてきてくれないのである。だから、やっぱり鍛える必要があるのだろう。

 

1.問題の発見

 AIに出来ないこととして、誰が語っていたのだけれど、それは問題を発見することなんだそうだ。AIは問題を解決することはできる。しかし問題を発見することは、人にしかできないそうだ。少なくとも、想定の中では。

 

 生きるのがつらいとか、死にたいとか、なんだかもう参っちゃいそうだとか、悪夢しか見ない等、人にうまく説明できないことに苦しむということは良くあるのではないだろうか。そういうときには、周りがやや恨めしく思うこともあるだろう。僕は、正直小学校に入ったあたりから40歳になるくらいまで、誰にもそういうことなく、無意識に心の中で「助けて」とつぶやいて過ごしきた。心理学まで専攻したのに、それがなぜなのか良くわからなかったし、だんだんわかってきても、理由が分かったところで、それからどうして良いかわからなかった。

 しかしその一方で、何を求めているのかは少しずつはっきりしてきた。それは「必死」だった。好きな漫画に共通していること、それはみな主人公たちが必死になって何かを得ていくということだった。そこをフィクションに求めてかりそめに満足したくない、という考えに、少しずつ固まっていった。

 ということで僕においては、問題は「どうやったら必死になれるのか」ということだった。バスケで全国優勝とか、ゾンビだらけ世界で生き延びたいとか、そういう理解しやすいものである必要はなかろう。個人的な問題なのだから、個人的で構わないはずである。

 

(少し話がながくなりそうなので、駆け足気味で以降書く。)

 

 

2.単純化

 問題を発見したところで、その問題事態があやふやのままであることも多いし、そもそもうまいこと言語化できないでいることも多い。言語化したところで、なんだか複雑だったりする。そういうときは、物事を気楽にしつこく分解して、すごくすごく単純化してしまうのが良い。英語をマスターしたいときに、まずは英語の本を一冊読んで読んでみる、とかまずは単語を10暗記してみるとか、とにかく成果がはっきりした課題にしてしまうのである。そうするとそれが短かろうが、低かろうが、確実に前進しているという実感を得られる。

 のみならず、一歩前に進むと見える風景が変わるのである。不思議な話、それがわずか1センチ程度の前進でも、前進してみると次の一歩がどこら辺に向けて降ろすべきなのかが見えてくるのである。だから複雑そうな問題を「要は」という乱暴な分解を施して、どこに向かって何をすべきかということを仮説で構わないので、決めちゃうのである。間違った1歩でも、進んでみると間違っていたことはわかる。何もしないと何もわからない。とにかくすごく単純化して、腰が重いなら重いぶんだけ、ハードルをさげる。1mmでも前に進むほうが、停滞しているより100%良い。

 

 

3.本を読む

 進み方とか進んでいる方向とかが正しいかどうかということを検証するには、知識が不可欠である。そして知識というのは、真摯に求めるぶんには、けっこう素直に得ることができる。単純な話、人より本を読めば良い。「幸せになる方法」という類の身も蓋もないような類の本でも、まあ良いと思う。読み始めは。でも多少でも慣性が味方につき始めたら、古典とベストセラーを読むことを勧めたい。自分の趣味を無視して。今の流行と昔の流行を読めば、その差を含めて、バランスを得られる。すると良書と悪書の差もだんだんわかってくる。時間のスクリーニングを経た古典とカッティングエッジな今耳目を集めているものを読めば、そうそう足元が狂わないじゃないだろうか。それにすごくシンプルである。kindleを使って読めば、スマホで読めるから、混雑した電車の中でも読める。その上、あと何分で読み終えるかも計算してくれる。

 

 余談だが、ビデオゲームの類は、本質的には人の前の向きな向上心を動機としている。「時間をかければかけるほどレベルアップする」のだから。それを数値化して明瞭にしているから心地よいのである。しかし現実もほんとうは遠からずで、たいていのことは時間をかけた分だけ上達すっる。私たちが生き延びるのに、必要なのは心の強さもあるが、それを形成するのも補完するのも知識である。だからゲームにかける時間と金を知識につかうのは良い。すごく単純に、心の鍛え方そのものも本から得ることができる。ネットからだったらより平易に得られるのでは?と考えるかもしれない。でもたぶんそれは違う。ネットで調べるのはすごく良い。それだけで得られる知識はいっぱいある。だけど何故かわからないが、本から得る知識は、食事のように血肉になりやすいように感じる。ある種、等価交換の感覚なのだろう。手軽に得られる知識は、身離れが易い。安い服は長持ちしない、みたいなところか。違うかもしれないが、直感的に本は、知識を得る果実としてはより良いものだと僕は思っている。

 

 

4.運動

 運動が身体に良いか悪いか諸説がありまくりなのだけれど、僕らの脳がどうやって発達してきたのかを鑑みると、運動するほうが普通なのだという観に至りやすい。心も脳も筋肉と同じで鍛えれば強くなるそうだ。一緒に鍛えたほうがバランスが良いじゃないだろうか。これもまた本を読めば、運動をすることのメリットがいろんな本で散見されるはずである。だから本を読めば読むほど運動をするように、自然なると僕は思っている。

 

 

 

5.人に会う

 本を読みまくって、運動していると、それらが個体の中で成長する知性であって、社会と相対した時のバランスが図られないままである。そういうデメリットが故にというよりは、人に会うととたんに「あ!そうなのか!」(ユリイカ!)という発見に出会うことがある。だから人に会うのはとても良い。でも本をいっぱい読みながらである。本を読んでいると知識のレベルが上がる。人より読めば、多少の差こそあれ、ゲームのように単純にレベルアップする。知識が。それにともなって世界が拡張する。空がなぜ青いのか知っている人がみると空としらない人が見るそれは、違う。そうしていると人の精度のようなものが少しずつ見えてくる。すると会いたい人がだんだんわかってくる。そして会うとかならず得るものがある。

 

 

 本を読んで、運動して、人に会う。それ以前に自分が何を求めているのか暫定的にでも発見し、そのためにすべきことを単純化する。

 

 

 そうすれば、人はたぶん、必ずより生き延びやすくなる。自分の心のうちから「助けて」という言葉が消えていく。酒やドラッグに逃げなくて済む。人と自分を較べてひがんだり、自慢したりしないで済むようになる。なぜなら本を読めば読むほど人生がどれほど短いものか、知るに至るから。長くなったけど、実行するのにそんなに難しいことではないはずだ。居丈高に聞こえたかもしれないが、実際ところ、僕はこれを僕に向けて書いた。