シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

旅としてのホテル

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東京には程度の差こそあれ、「高級」と冠につけられるホテルが30以上ある。頻度高く何かと足を運ばれる方も、そう滅多に訪れない方もいるだろう。ホテルのラウンジは打ち合わせや顔合わせなど、ビジネスに利用される方も多いだろうし、仕事帰りにバーに立ち寄る方も少なくないかもしれない。僕自身は、ラウンジで会議をすることもあれば、バーに行くこともあるし、時折宿泊もする。さは言えど、頻度が高いというほどでもない。そこに住んでいる方などを除けば、「時折」程度かそれ以下しか訪れない人のほうが圧倒的に多いはずである。何が言いたいのかといえば、「高級」とつくホテルは、基本的に「非日常」であるということである。

 

「非日常」にも程度の差はいろいろとあるだろう。僕自身は、出不精ぎみなのもあって住んでいる渋谷区より外に出ることがあまりないから、港区だろうが、板橋区だろうが、江東区だろうが、どこを訪れても、そこそこ「非日常」である。なのでそれらを楽しもうと思えば、なかなか楽しめる。平日のある日を休みにして、赤羽で朝7時から飲んで所謂「せんべろ(千円でベロベロになる)」を体験したこともあったが、それはそれは楽しかった。昼過ぎには、まさにベロベロになってしまう。うちへ帰って寝ても、起きれば夕方前後でまだ一日が終わっていないという、それこそまさに「非日常」な時間のポケットに身を置くことにもなる。しかしこれらは程度で言えば「浅い」ほうの非日常であろう。映画鑑賞などもこの「浅め」の非日常には含まれるだろう。良い映画ながら、日常から2時間前後すっかり切り離されて、殺されそうになったり、地球を救ったり、エイリアンと戦ったりできる。「なんだかんだ言って大丈夫」という安心の背後からとは言え、普段からは乖離できる。乖離することの良さは、小説などのフィクションが担っているものであるが、「日常」というものの輪郭を覚えることができることだろう。人の気持ちとか、普通にそこにあるものの大切さだとか、そういう輪郭である。これ、とっても大事で、こういうことを怠っていると、日常というものの輪郭が消滅してしまって、大切なものが大切であることをすっかり忘れてしまうことになる。失って気づくならまだしも、失ってもそれが大切だったことに気づかなくすらなるかもしれない。

 

徒然に書いているぶん、前置きが長いか。「深め」の非日常は、旅であろう。知らない土地の匂い、人、食べ物、景色。国内だろうが、国外だろうが、目に入るものすべてが新鮮で彩度も高い。キャンプなどのアウトドアアクティビティもこれに相当するだろう。焚き火の匂いや外気を感じて眠り、目が覚めることなど、感覚が泡立つように敏感になる。単に日常の輪郭に触れる以上に、知見を増やすというか、生き物として成長する栄養が旅には豊潤に含まれている。一人でも友人とでも恋人同士でも楽しいだろう。リスクが伴っているとその分、知覚は活性化されるから、未知なる国や登山なども、人生の成長にとって肥沃な行為といっても良いように思う。

 

そんななか先のホテルに泊まるというのは、その中間くらいの「非日常」ではないだろうか。忙しくて長い旅行に行けないときには、小さな旅に出るような心持ちで、宿泊するのは、脳や心にとても良い。リスクは何もないけれど、細部まで心配りされた空間においては、それなりに知覚が研ぎ澄まされる。(「小さな旅」として宿泊するのは、ちょっとお金がかかることに対して、小さな旅にいくつもりでいれば、それ相応と感じられるのも良い。)

 

まずは入り口から。「高級」という冠は、どうも垢にまみれ気味で、そのぶんシャビーに聞こえるので使いたくないので、以降ただ「ホテル」とだけ呼ぶが、ホテルに行くなら、最寄り駅からある程度離れているなら、タクシーで訪れるのが良い。駅から歩いて行くよりは、タクシーのほうがホテル的非日常に入り込むには適しているからである。例えば新宿にあるパークハイアットは、新宿駅から歩けば10分くらいの距離にある。だから新宿駅からタクシーに乗って訪れてもさほど良心(それくらいの距離歩けよという呵責は発現しない程度に)は痛まない。タクシーでホテルに到着するとタクシーのドアはいつものように自動で開かない、またはちょっとしか開かない。その代わり、ホテルの方が、さっとタクシーに近寄ってきてドアを開けてくれる。非日常の幕開けにはとっても良い始まり方に思う。

 

ホテルに入ると良い匂いがするところが多い。オリジナルのアロマデュフューザーを使っているためである。パレスホテル東京コンラッドシャングリ・ラホテルもそれぞれとても良い匂いがする。どこから匂いっているのかは探しても見当たらない。黴のような匂いやタバコの臭いなどしない。男女ともに惹かれるいい匂いがする。天然オイルを使っていても行為そのものは人工であるが、とは言え、旅先で触れることができる自分の日常になかった匂いとして感じることができる。

 

それからレセプションで宿泊の受付をすることになるが、レセプションの近くには、だいたいラウンジがあり、そこにはちゃんとした服装を着て背筋を伸ばした人たちがいる。夜ならデートをしているカップルも散見されることだろう。彼らもまた場所に後押しされるように高揚していることも多いだろう。見事な夜景が見えたり、揺らめく暖炉があったり、生演奏が高い天井のもとで響いていたりするのだから。

 

宿泊する部屋のあるフロアまでエレベーターで昇ると、今度は長い廊下がある。廊下のカーペットはフカフカで足音はあまりしない。窓のない廊下には迷宮、いやダンジョンのように、表示された数字だけが違うドアが延々と並んでいる。ホテルの廊下を歩いているとき、幾分不安に似た感情が湧かないだろうか。僕はかすかに湧く。勝手知ったる空間ではないし、異様に静かだし(それは賑やかなレセプションのあるロビーとは対照的でそれが故にことさらに)、窓がなくて薄暗いからだろう。自分たちの部屋をついたときには、その分ほっとする。

 

そしてドアを開けると綺麗に整った空間が現れる。ホテルや部屋にもよるが、ビジネスホテルよりはずっと広い。ときにはウェルカムフルーツやシャンパンがテーブルの上に用意されていたりする。高揚極まれりである。多くのホテルは、バスルームと部屋は視覚的に遮るものがないような作りになっている。ブライドを下ろせばもちろん閉じた空間になるが、開けておけば、バスルームから部屋を通して、窓の外の景色が見られる作りになっていることが多い。

 

さてそんな部屋についたところで一体何をするのか。僕はひとつしか思い当たらない。それはデートである。友だち同士でも楽しいのかもしれないが、僕には友だちとホテルに泊まって遊ぶという発想がどう頑張っても湧いてこない。デートのほか思いつかない。恋人でも伴侶でも良い。兎に角デートである。

 

ホテルでのデートは、即セックスかと言えば、それも悪くないが、せっかくだから嫌らしく引き伸ばすようにいろいろと楽しみたい。ホテリエに頼んでワインクーラーとグラスを持ってきてもらってシャンパンを開けるのも楽しいし、持ち込んだ小さなスピーカー(ホテルに使い勝手と音の良い音響設備が備わっているところは、すごく少ない。そんななかグランドハイアット東京はとても充実している。)で、好きな音楽を聞きながら、好きなお酒(例えばビール)を飲むのも良いだろう。それから良い匂いのするキャンドルをつけるのも(こうやって書くと気持ち悪いが実際にするのはさほど気持ち悪くない。はず。)良い。夜景がきれいな部屋なら部屋の電灯を消せば消すほど、夜景が綺麗に見えるからキャンドルがあると重宝する。

 

食事はホテルのレストランでも良いが、ルームサービスのほうが僕はもっと楽しいように思う。これは個人によりけりかもしれないが、ルームサービスは、テーブルにもなるワゴンに乗せてホテリエが静静と運び込んでくれる。その前にドアをノックか呼び鈴も鳴らす。ホテルのドアがノックされるのを聞くと僕はいつも特定のではない(たぶんもう抽象化された)映画のシーンを想起してしまう。何かこれから事件が起こるようなそんなワクワクした気持ちがちらっと湧くわけである。

余裕があれば、食事前にちょっとプールで泳いでみたい。即物的ではない色気のあるプールにはやはり高揚させられる。グランドハイアット東京のプールは狭いが縁の光っているジャグジーが併設されており、泳いでいる最中は、その光を水中でも浴びることになる。パークハイアットなら最上階にあるのでジムも含めて東京の街を見下ろすことができる。そこでさっと泳いでから部屋に帰ってルームサービスを頼むなら、バスローブのままでも良い。

 

決して安くはないが、旅だと思えば安いかもしれない。ホテリエたちはちゃんとした接客をしてくれるから、自分たちがそれにふさわしい人間であるかような気持ちにもなれるし、そんな気持ちでデートの相手に相まみえると随分と盛り上がれる。

 

僕は自宅以外で眠ると必ず深夜に目が覚めるのだけれど、そんなとき窓から見る景色が好きである。都内のホテルなら自宅からそう遠くはないかが、日常からは結構遠い場所である。間延びして点滅するビルの警告灯や高速を走るまばらな車などを観ていると、何かが去来しては言葉にならないまま霧散していく。そういう密度のある沈黙を抱えたまた再び眠ると、起きたときに眠る前とは少し違った場所にいるような気持ちになる。それがきっと旅が僕らに与えてくれるものの本質的なものの一つなのだろう。だからホテルに泊まるというのは小さな旅だと、やっぱり思える。