シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

愛では足りない

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 豹柄の服を上下に身に着けて、だみ声のパンチパーマみたいな髪型をした小太りのおばさんが「いやぁ、セックスしたいわぁ。抱かれたいわぁ。激しく」と言ったとして、または小学生が元気よくキックすれば背骨から折れそうな細く痩せこけたおじいちゃんがビブラートがかかっているかもしれないか細い声で「おめこしたい……」と呟いたして、それを笑うな!という話をしたい。

 

 老若関係なく、誰かと付き合い始めたり、結婚したりするとき、またはその渦中にいるとき、このような不安や疑念が心中に湧くことはないだろうか?「いつまで異性として相手を認めあえるのだろうか」と。おそらくだけれど、日本人は特に他国に較べて、時間が経過することで恋人同士ではなく、家族化してしまいがちに思う。他国の文化に精通しているわけではないので歯切れは悪い。しかし聞き及ぶに、そう推測する。結婚後がわかりやすいと思うのだけれど、個人名のあった男と個人名のあった女性は、子供ができるとそれを契機に、ママになり、パパになり、そう呼び合う夫婦は少なくない。思うのだけれど、「ママ」や「パパ」を呼ぶ相手を抱けるだろうか。僕の感覚では、どうもそれは気持ちが悪い。「ママ」と囁きながら、セックスをするってちょっと可笑しい。近親相姦みたいだ。「パパ」だって同様だ。もちろんこれは子供の存在を前提にこのように呼び合っていることは承知している。しかしどうして名前のままではいけないのか。子供が男と女をパパ、ママと呼ぶのは分かる。子供にとっての唯一無二の父と母である。固有名詞と変わりない。しかし男にとって女はママではなく、妻であり、その前にひとりの女である。たとえ子育てにどれほどクタクタになっていようと、上下別々の下着を身に着けていようと女である。男も朝から晩まで歩き続けて足が臭かろうと鼻毛が出ていようとやはり本質的に男である。行為ではなく属性として「セックス(性差)」を軽視、いや無視しがちな傾向を僕はここに見る気がしている。

 

 余談だが、世の風潮にあてられてジェンダーの問題と言及したくなる。しかしジェンダーというのは社会的に形成される人工的性差を指す。それは時代や国によって変化するのである。僕がいまここで言及しているのはジェンダーではなく、セックス(行為じゃなく名詞。性差)である。口にしづらいということでなんでもかんでも男女差や性的アイデンティティについて語る時、ジェンダーといいがちに思うが、正確にはこれらのはなしはばっちりセックスについてのものだ。

 

 閑話休題というほどでもないが、話を戻す。夫婦が家族化して何が悪いと言われるかもしれない。もちろんそもそも夫婦は家族なのであるが、ここで言う「家族化」はこう定義しておく。男女が伴侶についてすでにセックス(こっちは行為)の対象ではなくなっていることを「もう家族みたいなものだから」と表現することがある。「恋人」としてのパートナーと「家族」としてのパートナーは意味が異なる。しかし「恋人」には未婚のニュアンスが含まれる。よって「伴侶がセックスの非対象化する」ことを「家族化する」と。

 

 さて、それの何が悪いのか。おそらくだが高度成長期に日本は生活の中心にストーリーよりも経済的発展、社会的成長というものを重視する傾向が強化された。日本の経済的高度成長は、プロダクトのクオリティとスピードとコストを追求することで達成したと言ってもそれほど間違いではないはずだが、その際、労働力たるわたしたち市井は、合理性を追求した。見合いで結婚し、団地に暮らし、男は猛烈に働き、女性は母として家庭を切り盛りし、学歴を重視して効率的に社会ヒエラルキーを形成していく。分業により効率化していく社会のなかで、恋人たちは、恋愛にストーリーを差し込むことを差し控えはじめ、ラブホテルを時間制で利用して、セックスをして帰宅する。父となった男は、妻が母となり家族化したことで行き場のなくなった性欲を性風俗で消化する。母となった女の性欲は、基本的に「貞操」という概念で抹殺されて、我慢のうちに無視される。このような流れのままその先端に私たちが今いる。おおむね変わっていない。ストーリーではなく効率を重視したシステムであった合コンが減り(たぶん減っている?)、そのかわりに出会い系アプリが台頭している(はず)。出会い系アプリの台頭はどうも日本に限った話ではないらしい。それはともかく男女の出会いとその後のセックス、はたまた結婚後の性欲処理すら合理性のもと効率化されているは現状も変わりない。そこにどんな弊害があるのか。その自問に答える前にひとつ問いたくなる。女はいつから女であることを許されなくなるのか。男はいつから男であることを許されなくなるのか。と。

 

 ここで冒頭の話を思い出していただきたい。おじさんみたいなおばさんがセックスしたがってはいけないのか。植物みたいにしょぼくれてしまったおじいさんがセックスしたがってはいけないのか。否。そんなわけないだろうと。私たちは、人権がどうのとか宗教がどうのとかいう社会属性を身につけさせられる以前にまずささやかな存在ながら人生をまっとうしている一個体である。つまり人間である。私たちはどのようにして生きていくべきか、という考察にまで足を踏み込むと哲学としての話になっていくが、ちょっとだけそれについ考えてさっと足を引っ込めようと思うが、幸福の追求であろうが、幸福とは?とちょっと考えてみるとそれは牧歌的な死に方、ではない。穏やかに死ぬことが幸福ではない。幸福とは、生きている時間の多くを楽しんで過ごすことである。マズローの欲求五段階説が指示すがごとく、社会の状況によって私たちが求めるは異なってくる。生きていくのがやっとの世界ではまず生きていくことを求めるし、その次には安全を求めるだろう。しかしどのフェーズでもやはり私たちは「楽しい」と思える時間を追求していると言って良い。さてそれを前提としたとき、男女がセックスをしたい思うこと、実際にすることを軽視したとき、生きている実感や男女としての充足感、またはパートナーであることの体感を得る機会を失っていくことは、けっして良いことではない。ながくなったが、夫婦の家族化の弊害はこれである。夫婦がパパとかママとお父さんとかお母さんと呼びあうのはおかしいのである。そして良くないのである。自分が本質的に何を求めているのか、ということを軽視してはいけないのである。

 

 ではどうすべきなのか。

 

 家族化した夫婦が恋人として相手を見るようにするのは、ものすごく難しい。じゃあ離婚すべきかとか浮気を奨励するのかといえば、そういうことではない。なぜならこの話の目指すところは、個体の幸福の追求である。離婚や浮気の先に幸福があるなら良いだろう。ある場合だっておおいにある。よって家族化してしまった夫婦がこれからどうすべきかケースによって大きくことなる。だからここで解決方法やそのヒントのようなものを提示することは困難である。しかし女や男が、社会的役割(それこそジェンダーである)に自分の本質を抑圧させてはいけないということは強く主張したい。

 

 かといって、性犯罪すら犯しても致し方ないということでは絶対にない。その幸福の追求の仕方は短絡的すぎるし、一歩うしろにひいてみただけで、被害者の深い苦しみと加害者の社会的制裁が視界に入ってくるはずである。性犯罪まで及ばずとも短絡的な性欲の解消として人格を軽視したアプローチも美しくない。相手の快楽と自分の快楽の最大公約を目指すのがあるべき姿であろう。

 

家族化した夫婦が、回復しがたい悲しい状況にいるということでもないだろう。ただただ自分が母や父であると同時に女や男であることを軽視することをやめて重視してそれについて考えるのが良いと言いたい。女が「セックスをしたい」と思ったり、口にしたりすることを色情魔みたいに言うことなかれ。男が「セックスしたい」と思うことを、スケベと蔑視することなかれ。蔑視するならば、性欲だけフォーカスして関わる相手の感情を無視した思考と行為である。姦淫とセックスは別である。姦淫することなかれはセックスをするなという意味ではない。若すぎるものたちがそれを希求することは抑制すべきものがあるが、もちろん結果に責任を取れないからだが、働き始めたら、誰だって希求して良い。難しかろうが、相手が依然として大切な存在であれば、互いのセックスを重視してどうしていくべきかを考えれば良いだけである。解答なき問題ではない。

 

また家族化していない夫婦であれば、一層に相手をセックスの対象としても大切にすべきだし、また自分自身セックスと対象たろうと努力すべきである。かけがいのない存在として大切するということだけでは足りないのである。相手をすべて受けれて一緒に支え合いながら生きていくといことだけでは足りないのである。魅力的な男であらんとすべきであり、魅惑的な女であらんとすべきであり、相手のこともまた継続的にセックスの対象として接したい。セックスと肉体的な行為として追求できなくなったカップルもいるだろう。年齢的な限界ということもあろうし、病気や肉体の問題によってかもしれない。その場合もあまり変わらない。セックスというものは、厳密に言えば、肉体的な行為以上のものである。性差を使った思考の交換みたいな部分がある。バクテリアですら、セックスに似た行為をするのだそうだ。子作りのためのものに限定したものではない。だからペニスをヴァギナに挿入することすなわちセックスではなく、もっと多くのものをセックスは含んでいる。手を繋いで一緒に眠ることだってセックスに相当する。

 

相手をサステイナブルに大事にし続けるということは、つまるところ幸福とは何かという考察を経由する必要があるのだが、社会的または宗教的バイアスをできるだけ排して考えみれば、自然と自分の性をないがしろにしないほうが良いという発見か回顧に到達するはずだ。そうして自分と相手の性を「大切にする」という好意に含めていくべきである。