シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

自己肯定がうまく出来ないで苦しんでいる人へ

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 先日自己肯定感が低い子どもについて触れた記事をちらっとだけ読んだのだけれど、もちろんちらっとしか読んでいないのでその記事については何も語れないのだけれど、この「自己肯定」についての思うところ、つまりタイトルにしている「自己肯定がうまく出来ないで苦しんでいる人へ」向けて、(タイトルが具体的なくせに)徒然と書かせていただきたいと思う。ブログのテーマ(ホテルとシャンパンのそのあいだ)からは、少し遠のいた話になると思う。

 

 自己肯定感というものの欠如、からすぐに思い浮かべるのは、「境界性人格障害」。所謂ボーダーと言われる人格障害で、その呼ばれ方をしたのは、比較的最近のはずで、それ以前に「ヒステリー」と呼ばれていた症状もたぶんこの人格障害に含む。これがどんな症状かというとけっこう本を読んだつもりではいるのだけれど、自分の中では判然とはしていなくて、正確性に欠けるだろうが、僕なりの解釈でボーダーについて説明すると

 

「母親が不幸な姿を子どもに見せつ続けることで子どもに発生し得る自己否定の自己イメージと自己肯定したい生きる力の間で揺れ動きながら人知れず、もがき苦しみ続けるしんどい世界を持ってしまっている人」ということになる。

 

 『境界性人格障害のすべて』という本に書かれていたと記憶しているのだけれど、ボーダーを作るのは簡単で、母親が子どもに自分の不幸な姿を見せていれば、子どもはボーダーになる、と。心のダイナミズムを想像すると、理解しやすいのだけれど、母親が「自分(子ども)が存在しているがゆえに」幸せではない、という姿が子どもの中にどんな世界を構築するのかというと、それは、自分を取り巻き、そして守ってくれる存在である母親が(「おまえのために苦労を厭わず頑張っている」「おまえがいるから、我慢している」という姿をみせることで)、ある意味逆説的に不幸であるという姿は、子どもにとっては、「自分は存在していてはいけないのではないか」という不安と「やっかいな自分はいつか捨てられるのではないか」という不安と「それでも生きたい!満ち足りたい!前に進みたい」という生命力が体内的に拮抗して暴れて、所在を見極められない、状態をずっと活性化させるものになる。「ボーダー」の本来の意味は、神経症統合失調症の間という意味なのだけれど、その辺は、興味ある方は独自で調べた方がより詳しく知ることができると思う。ここで言う幾つかの力の真ん中で揺れ動く、という意味での「境界」っぽい状態とこの名は無関係である。ただ本質は、こういうことだということを説明したいだけだ。

 

 存在していてはいけないかもという不安と存在していたい!生きたいという生命の力が拮抗していて簡単にどっちかにぶれ得る状態の中、生きる、ということを。

 

 傍目からは普通に立っている姿に見えても、実際のところ、倒れそうな状態のなか踏ん張って立っている、状態とも言える。ボーダーではない人が普通に一歩進めるところ、ボーダーはすごく踏ん張って一歩進めている。誤解されたくないが、ボーダーはそうではない人より苦しんで生きている可哀想な存在、ということを言いたいわけではない。ボーダーのみならず、たぶん人は多かれ少なかれ全員人しれない何かに苦しんだり、脚を掠め取られながら生きている。ある種の人の苦しさの理解の啓蒙ではない。では何が言いたいのかというと

 

 上記のような世界の中で生きている人がいたら、僕はその苦しみ知っているよ、ということである。言いたいのはほとんどそれだけである。多くの人は、それを境界性人格障害だと知らずに、「自分が悪い」と思いながらも、対処方法を知らないままにずっと生きている。これがけっこうしんどい。そして「自己肯定をうまくできない」「自己肯定感が低い」って、たぶんまさにこの状態に近い。だから当てはまる人がいたら、自分はもしかしたら境界性人格障害かも?と考えて調べてみたり、本を読んでみたら良いと思うし、自分ではなく我が子や友人や親に対しても同様で、やっぱり「もしかしたら」と思えたら、数冊本を読んでみることを強く勧める。

 

 この類の障害に関しては、つけ込んでくる悪徳ビジネスも存在しえるので(解決しづらい問題にはいつも悪が入り込みやすく、たとえをあげるとわかりやすいと思うが、それはアトピーと癌。それ故に高いリテラシーが求められる。だから)、できるだけ「本」を読まれたい。ネットではなく。複数の、出版社や著者の違う、本を。

 

 

 さて、そんな人格障害を紹介をするなら少しはその解決方法、治療方法のようなものを示唆くらいはするのか、と問われれば、一応イエスである。しかしその方法は、たぶんどの本にも書かれていない。治療がとても難しいということはよく書かれているけれど。そして僕がこれから語ることは、別に境界性人格障害に苦しむ人に向けてだけではなく、単純に自己肯定をうまく出来ないでいる人に向けての示唆でもある。

 

 もったいぶらずに結論を言うと、「強引に自分を肯定しようとし続ける」ということである。自己否定の自己イメージというは炎天下の砂漠を歩く人の影のように何をしようとずっとまとわりついてくるものである。学年テストで1位を取っても、インターハイに出場できても、営業成績で1位になっても、「偶然だ」「今だけだ。そのうち凋落を見ることになるかもしれない」等、言い掛かりのような不安を魔法のように練りだすことが可能である。努力で逃れられるかというとこれがまた難しく、自己イメージに「自分はダメな人間だ」というアイデンティが含まれているので、努力をする自分にブレーキをかけることもあるのだ。そして芳しくない結果を迎えては「ほらやっぱり自分はダメな人間なんだ」と安堵する。そして安堵の中嫌悪する。だから四の五の言わずに自分を肯定するのが、僕は一番良い。

 人生を賭して自分を好きになってくれる人が現れるのもありがたいが、自己否定の人間は、自分を好きになる人を結果見下してしまう。自分をダメな人間だと思っているから、自分を好きな人をそっち側に含めて見てしまうからだ。

 

 だからもう強引に自分への愛を育むのが良い。全肯定するわけである。もう強引に。寝坊しようが、朝までゲームをしてしまって会社を遅刻しようが、自分OK!と思うようにする。そんな簡単ではない。僕はElephant Loveの“モンキー”を何百回と聴いたけど、それでもなかなかぜんぜん自己肯定なんてできなかった。モンキーの歌い出しは「♪頭も顔も悪い 性格悪い いやすべてがだめ 愛もないし愛されてもいない でも自信満々幸せいっぱい」で、僕は人生を前に進める思想は「これだ!」と思った。でも正解、のはず。

 

 加えて媒介として必要なのは、必死になってみる、ということ。何に?という制限はなく、頑張らないと死ぬかも?って状態に持っていくのか、高みを目指すのかとかはどうでも良いのだけれど、人間、崖の端まで行くと生きる力が総動員される、ことが多い、と思う。

 僕自身、今ではすっかり自己肯定のハッピーライフというわけではない。見る夢のほとんどは相変わらず悪夢だったり、ときどき吐きそうになったりしている。でも、生まれて初めてのことだけれど、幸福というものの存在を認められるようになってきた。

 

 ともあれ、もしこれをここまで読んでいるあなたが、自己肯定できないで苦しみながら生きているなら、やっぱりこう伝えたい。強引に自分を肯定し続けて、そしてなんでも良いから必死になってみて欲しい、と。親を責めても1ミリを前に進めない。単にコルチゾールを多出させて終わるだけだ。不幸しか生まない。すべきことは、先のモンキーの歌詞みたいに、もう強引に無条件に自分を肯定するだけである。

 

 余力があれば、ちゃんと寝て(眠れなくてもベッドに入って)、7時間くらい寝て、有酸素運動をして、嘘でもいっぱい笑って、ちゃんと食べて、お菓子は控えめにして、そして好きな人がいるなら、またはできたなら、その人をできるだけ全肯定して欲しい。

 

 自分のことを肯定できる人は、不幸を生まない。僕らは、そこに近づくために、もがいて生きていると言っても過言ではない。サン=テグジュペリの言う「自分を完成させること」というのは、そういうことかもしれない(『人間の土地』にその表現がある)。強引って、ところが大事です。無条件。ちゃんとなになに出来たらとかじゃなく。今すぐ、自分にOKを出してあげること。それを続けること。そして勇気ややる気を生むための努力で補完してあげること。自分が好きになれないなら自分を好きな人から好きになるようにしてみること。ブラーブラーブラー。

 

 境界性人格障害というのは、有益な視座でもある。ADHDが才能のひとつであるように。学校や社会を基準に世界を規定するのはつまらないし、間違っている。それらは全部一過性の便宜上の尺度にすぎないし、それで図るのはアベレージに過ぎない。ブラーブラーブラー。