シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

おっぱいは良い

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 最初に結論を言うと、男が女に礼儀正しければ、世界はより良くなるはずだ、ということになる。それがこの話の主旨だ。

 

 季節は、初夏と真夏の狭間、梅雨。といいつつもあまり雨は降らないで、むしろ湿気の少ない過ごしやすい夏のような、今。東京では、巷でみかける女性のほとんどは、胸のかたちの分かる格好をしてらっしゃる。程度の差こそあれ。映画『アイアンマン』では、複数の敵に同時にロックオンしてミサイルを放つ機能が描かれているが、あの機能が僕の焦点にも備わっていれば良いのに、と思うほど視界には複数のかたちの分かるおっぱいがいっぱいである。

 歳を取って、モテたい、好かれたいという気持ちが減じたせいもあろうが(結婚しているので、そろそろ減じないなら減じないで問題である)、おっぱいを見ていると思われたくないという羞恥による自制機能がやや低下しており、目でではなく、頭ごと動かしてみてしまっている。イタリア人なら、女性全体に向けて、あからさまな視界を向けるだろう。それはそれで男として立派に思う。しかしおっぱいばかり見てしまうというのは、少々、いや大いに人格や品性を貶めていることだろう。しかし、その魅力はとても強力である。宇宙的な力学が裏側で作用しているのではないか、いやきっとそうに違いないと思うほどに強力である。もしかしたら太陽風の影響もあるかもしれない。今年はことさらに強いというニュースが流れていたかもしれない。

 

 さて、これは僕個人の問題なのだろうか。世間では、僕の中に流れる「求む、おっぱい」という熱量は、これほどまでに高くないのだろうか。いや、そんなことはないはずである。世見のオッパイ熱は、(それも僕のように季節的な増減などなく、それは通年)高いはずだ。僕は、ついついすれ違うおっぱい群に目を奪われるが、おっぱいのかたちをしたマウスパッドを欲しいと思ったこともないし、「おっぱい」で動画や画像を検索することもない。そう考えると、僕のおっぱい熱などむしろモデレイトでハンブルな、慎ましいものではないだろうか。

 

 加えて、そこに行動を伴った欲求もさほどない。すれ違う女性たちのおっぱいを触りたい(っちゃ、触りたいけど)と強く思うわけでもない。ただただ良く見たい。そして「良いねー」と思いたい。それはまるで花や鳥を好きな人たちが、それらを見ることで強く満足する様に近いものだ。しかし、よしんば触れるとしたら触りたい浅ましさは否定できない。先日、うちに遊びに来た友人夫婦の奥さんは、自他共認める豊満なお胸をお持ちで、立派ですなと感想を漏らしたところ、「触っても良いよ」という予想外の発言を得た。しかし未熟な僕は、旦那さんの目の前で奥さんの胸を触る、という蛮行についぞ至れなかった。世界を変えるのようなイノベーターだったら、触れたのではないだろうか。スティーブ・ジョブズマーク・ザッカーバーグだったら、触ったことだろう。自分の凡人っぷりが恨めしい。

 いらぬエピソードを挟んだが、要は「そこにある多様なおっぱいを認める」ことを所望している、ということである。その動機は、と問われれば心高まるからである。

 

  

 さて、こうまでも心高めてくれる、おっぱいという存在とはいったい何なのだろうか、ということについて考察を深めるのは至極自然なことである。考えた末に、出した結論は、「世の中をより良くする小さな神様みたいな存在かもしれない」と言うものだった。何故か。

 ひとつ例を挙げてみたい。あなたは男性で、朝プラットフォームにいて、これから電車に乗ろうとしている。混雑した時間帯である。ひとりの若い男性がすれ違いざまに肩を食い込むくらいの勢いでぶつけてきた。小さなうめき声が出てしまうほどの痛みがあった。そのときに耳に聞こえてきたのは、その若者の舌打ちであった。これから忙しい一日が始まろうとしている矢先に不条理で腹立たしい舌打ちである。あなたが血気盛んな人であれば、その若者を捕まえて、文句の一つや二つ口にするかもしれない。しかしちょうど電車がホームに滑り込んできて、あなたはそれに乗らなくてはならない。行き場のない苛立ちを抱えながら、満員電車の中に身を押し込む。自分の後からもいっぱいいろんな人が流れ込んできて押しつぶされそうになる。気がつくと目の前には女性がいて、鞄を抱えるあなたの手にその女性の胸が触れたとする。手を引っ込めたいが、それもままならぬ。あなたは女性に向かって小声で「すみません」とおいうかもしれないし、言えば逆に気まずいかもしれないと思い黙っているかもしれない。しかし女性の方から逆に「すみません」と声を掛けられたとしてよう。掛けられなくても良い。女性の胸が手に触れていた時間はほんの僅かだったとして、あなたは先程、あなたの一日を台無しにするかもしれない苛立ちを湧かせた若者の舌打ちのことについてまだ考えているだろうか。これが僕だったら「今日はいい日だなぁ!」と思ってやまないだろう。

 接触などせずともである。苛立ちを抱えながら、電車に上手く座れとしてよう。向かいには女性が立っていて、けっこう胸のかたちの分かる格好をしていたとしよう。または屈めば見えそうなほど襟周りのひろい服を着ていたとしてよう。彼女からは、魅力的な香水の匂いがかすかに漂ってきたとしよう。それでもまだあなたはイライラしているだろうか。僕ならやっぱり「おっぱいっていいなぁ」ということに思考のキャパシティの大半を奪われていることだろう。舌打ちをした若者のことなど、重力から開放されたスペースデブリくらい遠のき続けて、すでに僕ワールドにおける光の届く範囲の外に抜けて出てしまっている。

 

 さて、このたとえのなかで舌打ちをされる側の人間が、感じるような不条理な苛立ちというものは世界に無数にあることだろう。そしてそれは負のスパイラルを生み得る。同僚に悪態つくかもしれないし、部下の失敗に思いの外、強い感情を込めて叱責してしまうかもしれない。帰宅してから、伴侶に冷たい態度を取ってしまうかもしれない。発展すれば、誰かと喧嘩したり、はたまた見しらぬ誰かに舌打ちをすることだって有り得る。社会事件の多くは、些細な負のスパイラルが遠心力を得て、起きてしまうものではないか、と僕は考えている。

 

 であればである。世界に魅力的なおっぱいが溢れていればいるほど、不条理な苛立ちが世の中から消えていくのではないだろうか。何もかもうまくいないな日々が続いているときに、道の向こうから来た女性が何か落としてかがんだときに、ブラジャーやらおっぱいが見えたとしたら、やさぐれていた気持ちが減っていないだろうか。「何もかもうまく行かない人間に、神様はおっぱいをちら見させるだろうか?」と自問しないだろうか。そして「否!」と答えやしないだろうか。これからいいことがあるかもしれない!と思うかもしれない。そんなわけでイスラム教圏内では、そういうわけにもいかないだろうが、世見にすてきなおっぱいが溢れていればいるほど、世界はよりよくなるのではないか、と希望のように強く思うわけである。

 

 しかしここでひとつ問題がある。世見の女性が、おっぱいのかたちのよく分かるきわどい格好をすればするほど、性犯罪やセクシャルハラスメントが横行するのではないだろうか、と。(それこそがイスラム教が女性に露出させない根拠でもあるが。)礼節を欠く程度の露出が、その場にあるべきふさわしい気配を壊しかねいないという問題もあるだろうが、それは節度の問題として棚上げする。今は、おっぱいの存在を享受できるような格好が、女性たちの身を危険に晒す契機にもなりうる懸念についての話に終始したい。その通りだろう。逆にである、逆に、にも関わらず男たちは、女性がどんなにきわどい格好をしていても、女性たちを大切に扱うなら、この問題はなくなる。一人残らず、どの男も礼儀正しくしなくてはならない。またもし誰か女性への礼儀に欠けることがあれば、男性が率先してそれをたしなめれば良い。女性が安心して暮らせる世界を男たちが必死で作れば良いのである。そうすれば、世界は素敵なおっぱいで溢れるはずだ。否、本当は、本質的はおっぱいではない。おっぱいは象徴であり、村上春樹さんぽく言えば、ある種のメタファーである。(「僕は、おっぱいを実存として求めているのではなく、メタファーとして希求している、ということになると思う。母性性というよりは、エンティティの欠如を補完する異性を求める、そのダイナミズムの対象としておっぱいを求めているんだと思う」みたいな。)おっぱいは、女性である。小さくても、無くても構わない。わかりやすくするためにおっぱいに集約している。だから結論はこうなる。

 

 男が女に礼儀正しければ、世界はより良くなるはずだ、と。

 

 

 にしても、おっぱいって良いよね。そういうセラピーとかあってもいいじゃないかな。でも、色んな人に怒られるか。田嶋陽子さんとか。でも田嶋陽子さんのおっぱいを触るって、なかなかラディカルな行為かもしれない。そんなことできたら僥倖だろう。