シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

内側のピンク

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 先日、地下鉄構内の階段を登っているときに、目の前を歩く女性に注意を奪われることがあった。別にミニスカートでパンツが見えそうだったということではなく。身ぎれいにしていてスーツやスカートにはあまりシワもなく、毛玉もなく、白いシャツに黒いジャケットに丈の無難なスカートに少しだけヒールがある革靴、ボブくらいの長さの髪もちゃんとしていてボサボサじゃなかった。どこに注意を奪われたのかというと手提げにして持っていた黒い鞄が内側だけ鮮やかなピンクだったことにである。他が全部地味というか無難に小奇麗なのに、鞄の内側だけピンク。アピアランスに手を抜かずにいる女性が、鞄の内側以外をできるだけ地味に抑えている、というところから、僕は勝手に色気を感じたのだろう。ステロタイプな妄想の「一見地味な女の子が実はドエロ」とそう遠からずだろうと指摘されても、ノーとは言えないし、ほとんどその通りである。どんな性格でどんな生活をしていて、実際(?)にエロいのか、エロくないのか、ムスリムの女性たちはヒジャブなどで隠したその下がとても派手だと聞いたことがあるが、それを連想しつつ、地味な下に派手な、またはラディカルな下着を着ているのではないか、ということについて刹那想像を逞しくしたわけである。

 

 そんな女性を街で見かけて、思い出したのが妻が伊勢丹だか高島屋の女性の下着売り場で見かけた女性たちの話だった。齢は三十から四十代くらい。皆、スタイルが良いわけでもなく、なんならややぽっちゃりしていると表現しても良いくらいの体格。平日の日中にデパートの下着売り場に来ているから、専業主婦かもしれない。そして服装は、正直それほどぱっとしないもので、高そうにも見えなかったそうだ。にもかかわらず、ぜんぜん安くないというかちょっと高めの、それもいくぶん派手な赤や紫などの下着を、これが良いとかあれが良いなどと和気あいあいに選び合っていたとのこと。それについて、妻と僕は、上着はゴージャスだが下着がつまらない女性と上着は質素だが下着がゴージャスな女性では、後者のほうが魅力的だよね、という結論に至った。むろん、上着がゴージャスで下着もゴージャスというのも素敵だし、上着や下着が質素だとして何も非難されるべきことなどなにもないわけだけれど、自分が好き好んで接するなら、どういう人が良いかと考えたとき、地味に見えるくらいの外見なのに、その内側に秘めた色気がある人って魅力的で、知り合いたいし、親しくなりたいと強く思う。

 

 それはエロスの本質に、隠れている部分を露わにしたい欲求というものがあるからかもしれない。我々がわざわざ身体の一部(それこそ文字にして「秘部」)を隠すのは、この露わにしたいという動機を形成するためかもしれない。解かれることを期待して作られる難しい謎、のように誰かに暴かれることを期待して隠されるものというのは、思うに人を魅了する力を内包するというか創り出す。誰かに気づかれないと成立しない隠蔽なわけだけれど、エロスに限らないが、同種の人間には、同種に気づく触覚があり(よくSFで隠れたエイリアン同士が自分たちを認め合うみたいに。漫画『寄生獣』みたいに)、相手の隠蔽とか謎に気づくものである。

 

 僕の親しい人になんだかむやみにモテる人たちがいるのだけれど、彼女ら(彼ら)は、フェロモンに似たエロスの気配を我知れず発してるのではないかと僕は勘ぐっている。フェロモンは、人間にはもうなくって(フェロモンの名残としてまだあるのはワキガみたい)、そのかわりもうちょっとメンタルな信号としてエロスは、同種を引きつける力として機能しているのではないだろうか。

 

 ともあれ、頑張れば解ける謎、人を選ぶ課題と解答、そういう機能のもと、外側が地味で、内側がピンクのような地味とは対象的な気質や性質というものの存在は、とても興味深く、色っぽく、魅力的である。そういう意味では、下着というものが担っている社会的に役割というのは、思いの外重要なのではないだろうか。また同時に人間性というか生き物としての深みというものも育成していくことも下着のように重要である。人に見えない部分が後になって大事になってくるという意味で人の内面と下着が、アナロジーとして結びついているわけだけれど、それらはつまるところどこに向けられているのかといえば、サステイナブルに人と自分を魅了し続けることではないだろうか。一回セックスしたくらいで満足されてはつまらないわけである。脱がして、脱がされて、さらに興味をもたれたいし、持ちたいわけである。更新されるエロス、と表しても良いかもしれない。それを支えるのは、たぶん生物学的な好奇心なのだろう。猫を(にかぎらず好奇心を持つ全ての生き物を)ときどき殺すかもしれないが、好奇心は、生き物としての面白みを獲得させてくれる。そして時折、街で見かけた地味で小奇麗にした女性の鞄の内側のピンクに興味を向かせる。

 

 しかし下着というテーマに、一度焦点を戻すと、これはおおむね女性の下着についての話になるのではないだろうか。男性が下着に執着していろいろと凝った下着への探求をし始める姿に、あまり色気を感じない。むしろやや引くものがある。清潔でシンプルならいいじゃないかなと。女性たちの意見を時折拝聴すると、男性のTバックも悪くないという話も出てくるのだけど、男性のTバックは、肉体美の補助線を強烈に引くという役割を担っているのであって、女性の下着が担っている嗜好・思考の発露、というのとちと異なる気がする。男は、女性を困惑させない無難な下着で十分なのではないだろうか。役割としては、男性は女性を見るほう、持て成すほうであり、女性は見られる方、もてなされる方だと僕は思う。もちろん「らしさ」が拘束に及ばなくて良いわけだけれど(女性は女性らしく、男性は男性らしくという強迫はつまらないし、ときに弊害になる)、おおむねそのほうが具合や収まりが良いだろう。男性に求められるのは、意外性のある高価な下着ではなく、意外性のある高価な下着を纏う女性をちゃんと評価するという気配りというか姿勢だろう。

 

 じゃあどんな下着がより望ましいという話は、人によるだろうし、思うところもあるが今回は割愛する。その代わりの余談をひとつ。先日、最近親しくなったある女友だちに会ってお茶をしたのだけれど、会う前からこんな下着の話していて流れもあって、その友人は、「今日は、黒いランジェリーを身につけています」ということを教えてくれていた。お茶をしているだけでは、本当に黒い下着を着ているのかどうか確かめようもないのだけれど、「今日は黒いランジェリーを身に着けてます」と教えていくれている女性と一緒に過ごすというのは、声を大にして言いたいのだけれど、ものすごく楽しいものである。服を着て、ハーブティだかなんだかしらないけれど、おしとやかに飲んで、他愛もない話に笑って、少し経ったら落ち着いて、トイレにちょっと席を外してという、その間、「このこは今黒い下着を着ていて、それを僕が知っていることを知っているのだ」ということを考えることの屈折した楽しさといったらない。ただお茶を飲むだけなのに。

 

 変な余談を挿入したために何が言いたいのか、だんだん見失いがちになってきたのだけれど、たぶんこういうことが言いたい。暴かれたい謎のように女性なら下着、男性ならより(女性だって内面が大事だからこの「より」をつける)内面を軽視しないこと、と暴かれてからまた興味が湧くような奥底を好奇心を使って育むことが大事だ。ということを鞄の内側がピンクってドキドキしたこと経由で開陳したかったわけである。

性欲の捜索願い

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 十代、二十代の頃には、悪友以上ドラッグ未満の煩わしき煩悩であった性欲も四十前後あたりから、ふとその所在がわからなくなることがある。昨日までそこにいたのに、目が覚めていつもどおりに過し、仕事の合間にふと息をついたときなどに「あれ? あいつ(性欲)どこ行った?」と気づく。探しても、なかなか見つからない。うっちゃって置くと、そのうちに帰ってくるのだけれど、それもいつの日かとうとう帰ってこなくなる。そして途方に暮れる。見慣れない服を着て出ていかれたみたいに。しかし、そこに注目すると、不在の存在感は少しずつ大きくなる。そして性欲ってどんなんだったっけ?とその面影がぼんやりしてくる。

 

 そういうことについてそこそこ不安を覚えますって話である。

 

 人生のトラブルの多方が、金と色恋なのだから、その片方の問題から開放されるのだから、むしろ喜ばしきことに思えるかもしれない。しかしなんとなく、直感的に「あったほうがきっと良いはず」という気分のほうが強い。経済や政治などのプラクティカルで触れられるほど明確なものは、その必要性を言語化するのは容易いのに対して、芸術の有用性は、どうしても歯切れが悪くなるのに似ている気がするからこそか。うまく言えないけど、有ったほうが絶対良い、そう直感は具申してくる。

 

 そこでちょっと考えてみることにする。考えてみるのは、1.性欲の存在意義(レーゾンデートル)、2.失うとどうなるのか、3.行方不明にさせずにずっと側にいてもらうためにできること、の3つ。

 

1.性欲の存在意義(レーゾンデートル

 ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』という本によれば、恋愛と贅沢が資本主義を形成してきた、というようなことが書かれてる(まだ読んでいる途中)。実際、宝飾品とかハイファッションブランドや高級車など、その産業を支えているものには、恋愛的な動機(つまり根源的には性欲)が大いに含まれていることは想像に難くない。異性に好かれなくても良い人間が、素敵だけどなかなか良い値段のする香水や数十万から数百万(リシャール・ミルとかになると桁がもっと増える)する腕時計をするだろうか。もちろん自己実現とかヴァニティとかいろいろ動機候補があるけれど、それでもやっぱりモテたい、素敵に思われたいという気持ちが、僕らの経済活動の原動力の、少なくとも一部は形成しているはずである。

 

 経済としてなかなか重要なファクターであるのみならず、けっこうシンプルに僕らの生活においてドキドキしたり、ワクワクしたりするこもごももまた性欲を滋養として生まれているはずである。電車の向かいの席に魅力的な異性がいたら元気になるし、そういう魅力的な誰かと親しくなりはじめたら、世界がより良くなっていくような単純肯定的な未来感に身を包まれるはずである。

 老人介護施設のなかで売春(といっても手を握って眠るだけ)を禁止した途端にバタバタと老人たちが死んでしまったなんて話を(たぶん渡辺淳一氏の話かなにか経由で)耳にしたこともある。トキメキとかドキドキとかは、思っている以上にずっと僕らの人生に大切なのだろう。結婚していようがいまいが、何歳だろうが、性欲を活力としたトキメキを求める力を見くびらないほうが良いはずで、それは目の輝きや肌の張りや明日への活力を作っている。

 

 だから性欲はあったほうが良い。

 

2.失うとどうなるのか

 それがともすると、減衰して霧散してしまう予感を感じるわけである。歳のせいなのか。夫婦仲が良くても、性欲なしであれば、そこには潤滑のような「てきとうにうまいこと収める力」が損なわれるのではないだろうか。異なる人間が一緒に生きていくなかで生まれるささやかながらも確固として生じかねない軋轢は、概ね満足のいくセックスで消化されえる。「だって好きだもん」という類の乱暴な好意で、小さな問題は看過されるそのダイナミズムってすごく大事である。マーケティングよりも単純に魅力がすごくある商品が上位にあるように、「だって好きだもん」という強引な力は、けだし世界を前に進める力がある。性欲を失うと、この「だって好きだもん」という力も失ってしまう。

 日本は、海外よりもずっと夫婦の「家族化」が顕著な国に思う。欧米諸国の文化のほうが、歳をとっても異性同士として付き合い続けるように見える。比較はともかくとも、夫婦はできるだけ長い間異性として付き合っていたほうが良い。上記の「だって好きだもん」力についても有効だけれど、その人自身から発せられるオーラというか気配にも女として、男として満ち足りていることが表に出る。

 それを根拠に思うのだけれど、パートナーがいなければいないで、性欲がなければ、やはりその人の魅力も一緒に減衰していくだろう。視座を外から移せば、人が魅力的に見えるか見えないかって、いいかえると「美味しそうかどうか」って感覚に近い。まだ口にしていないけど、きっと美味しいはず、という食べ物は魅力的で、人もこの人と親しくなったら、ワクワクドキドキしそうという気配がすなわち魅力ではないだろうか。その気配は、性欲がその人の哲学やら美学やら性癖やらスタイルを経由して表に出たものである。だから性欲そのものを欠いては発せられない。

 要約すると、性欲がないと人は魅力を失くすし、人生も味気ないものに変容してしまう、ということになる。けっこう大事なものだ。

 

 

3.行方不明にさせずにずっと側にいてもらうためにできること

 それは単純で、つまり「性欲というものを肯定した上でなおざりにしないこと」に尽きる。ハリウッドのセクハラプロデューサーの悪行露見とか多くのスキャンダルとかが、宗教的な先入観を強化して、「性欲悪し!」という思い込みかねないが、上記の通りすごく大事な活力である。だからそういう先入観をちゃんと一回捨てて、やらしいことをしたがたる自分というものをOKと受け入れることがイニシャルな要諦になる。みうらじゅんさんか中島らもさんのどちらかが言っていたけれど、当事者たちが合意なら全てノーマル(アブノーマルじゃない)。細かい例外を断ったりしないけれど、単純に自分にとって大切なものを大切なものとして認めることから始める必要がある。人口抑制機能など社会学的にはタブーというものも大事なのだけれど、それは社会にとって大事なのであって、個人にとってはそうではない。価値観というものは、ときどきリストラクチャーする必要がある。

 そうしたら次に、自分の性欲を(性欲と言うほど直接的なものでなくても良くて、ドキドキすること、ワクワクすることと言い換えてもよい)なおざりにしないように努めるに尽きる。「なおざり」とは、「注意を向けずにいい加減にすること」である。(ちなみに「おざなり」は「その場限りの間に合わせの対処」という意味。どっちもいい加減にするという意味だけれど、おざんりは多少は何かするのだが、なおざりは何もしない。)

 女性なら、どうせ誰にも見せないしとか考えて下着を疎かにしはじめるとたぶん近い将来、女ではなく「人」になっていく。男もそうで、異性に対してより良く思われたい、より良く接したいという気持ちを捨てるとやはり男ではなく、ただの「人」になっていく。つまり性欲を大切に扱うということは、自分を異性に対して魅力的になるように磨き続けることを意味する。太っているなら痩せたほうが良いし、いい匂いでいるべきである。本を読んだほうがいいし、楽しく生きていたほうが良い。ビジネスでの成功と性にまつわるいろいろとはトレードオフではない。スティーブ・ウォズニャックっぽく言えば、バイナルではない。パートナーがいようがいまいが、自分の考える理想の自分というものに近づこうとすること、それが性欲をなおざりにしないということになる。

 

 これはきっと自分個人の問題に終わらない。世の中に魅力的な人が増えれば増えるほど、世界は魅惑的なものに向上していくはずだから。

普通という名の鐘が鳴る

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 「普通ということについて書いて欲しい」という声をいただいたので書いてみる。

 

 結論から言うと私たちが「普通」と口にするときは、必ずそこに歪んだ思念がある、ということである。普通というものは存在するが実存はしない。数字のゼロみたいなもので、概念としては有用であり、存在しているけれど、実際には無い。無いことが有る。禅問答みたいになってしまうけど、この言葉なしではとても不便になる。しかしよーく目を凝らすと点描画みたいに緑に見えていたものが、実は青と黄色の点であるように、普通がないことに気づくことができるはずである。

 

 私たちは、「普通」という言葉を使うとき、見下すような視座から使うときと、自己肯定するときの拠り所として使うときの2つのシチュエーションがある。

 前者は「普通の人」などと口にするとき。自分たちは特別で、そうではない人々を「普通」でくくる。実際のところ、それがさして現実から遠のいていないことだって多々あるだろう。例えば芸能人同士の会話であれば、一般人のことを「普通の人」といえば、彼らとは明らかに異なるし、それに近い状況の会話もあろう。

 しかしその場合でも「普通」でくくった人々をよくよく観てみると、彼ら彼女らはほとんど普通ではないことが多い。というかどの側面を見るかによって変わってくる。容姿はかもなく不可もなく、収入もすごく多くも少なすぎもしない、中肉中背、でも性欲がすごい!という人もいるだろう。人の属性としてその側面などいっぱいあるので、何もかも平均値という人などおそらくそうそういないし、いたらその人は平均値すぎる異常値と言えるかもしれない。

 そもそも平均値というのも疑わしい値である。平均値の母数が正規分布なのかどうかだって確かめたい。よく三十代サラリーマンの平均年収なんて言い方を見受けるけれど、例えばサンプルが10人だったとして、8人が400万で2人が1,500万だとすると平均値は620万になる。10人中8人は「自分の収入は平均よりかなり低い」と感じるだろう。でも実際そういう歪みがあるはずである。また「サラリーマン」という属性を外した途端に数値も変わってくるだろう。雑誌やインターネットの記事に出てくる「平均値」に対して一回は疑ってみておいたほうが良い。そもそも母数の規模や選出をどうしているのかだって知らないままに私たちは普段から多くの「平均値」を見ているはずである。

 

 「普通」という言葉を遣うな!と言いたいわけではない。遣うたびに「普通」でくくった対象についてちょっと考える時間を設けられたいと言いたい。なぜなら次に語る2つのシチュエーションのうちの後者である「自己肯定するときの拠り所としての普通」がなかなか危険だからである。

 

 換言すれば、それは「常識」とも言える。みんなが当たり前だと思っていること、だと考えていること。その普通はなかなか怖い。例えばナチス(日本における人種差別よりわかりやすいだろう。でも日本人もまた結構な差別主義者であることが多い)。ナチスを私たちは、人間の歴史の直視しがたい汚点のように扱うが、彼らは選挙で選ばれた政党だったはずで、その是非はともかく彼らも彼らを支持した人々も、パラノイアではないという事実は、けっこう見過ごされている。つまるところ、それが私たちである可能性はおおいにあるわけである。精神異常者ではない人たちが、ユダヤ人に飢えた犬をけしかけて笑ったり、親の目の前で子どもを殺したりしていたわけである。もちろんナチスに限らずそんな歴史はいたる国々にある。十字軍だってひどいものである。彼らは、そのときそれが異常だとは思わず「普通」だと考えていたはずである。

 

 先日、邦題では「ドリーム」、原題では“Hidden Figures”という映画を観た。良い映画だった。人種差別が今よりも「あからさま」だった60年代にNASAで陰ながら活躍していた黒人女性たちの映画である。未だに人種差別はアメリカに根強く存在しているが、黒人(アフリカ系アメリカ人)を差別することが「普通」だったわけで、しかしちょっと立ち止まって自分で考えることができれば、いつの時代だろうが、それが普通だと考えるだろうか、否なんし普通ではない。それは変わらない。しかしみんながそう思うなら、それが普通になってしまう。社会の構造が多数が作り上げる圧力というものを含んでいるわけである。

 

 センメルヴェイス・イグナーツというハンガリー人をご存じだろうか。19世紀(たった200年前くらいの過去)の医師で出産で死ぬ母子の原因を接触感染だと看破した偉人である。医師たちに助産の際、手を洗うことを提唱するも理解されず、それどころか排斥され、終いには集団からボコボコにされて死んでしまう。そこまで否定された理由は、今まで産褥熱で死んでしまった人たちの死因が医師である、という事実を認めたくないというものだったそうである。今日では、それこそ「常識」であることが、たった200年前には常識ではなく、正しいことを唱えた人が殴打されて殺されているのである。

 

 そんなわけで、私は強く主張したいのだけれど、誰かが(そこには自分自身も大いに含む)「普通」という言葉を口にしたとき、常に注意深くなるべきだということである。それは本当に普通なのか。そもそも普通ってなんだ?という自問を自動的に発動されたい。

 例えばテレビである。過去と良く比較しているわけではないが、今の日本のテレビは私の目から見るといささか、いやかなり異常である。どのチャンネルをつけても情報番組はほとんど同じ事柄を同じように取り扱っている。加計学園とか森友学園、芸能人夫婦の不和、なんでも良いがテレビ局など関係なく同じアフェアを取り扱っている。正直おののく。でもテレビを日常としてみている人は、テレビが放送しているレベルであればある程度の真実が保証されている感覚が多少あるように思う。疑っていてもだんだんそれが常識になっているはずである。(「日本の」と断ったが、他の国のニュースはもっとずっと多岐にわたっているし、よりグローバルで、イギリスがスペインの、スペインがプエルトリコのニュースを報じている。しかし日本のニュースを観ていてもあまり他国のことを触れないし、いろいろな視点は提供してくれない。その様子は、まったく普通じゃなくて「異常」である。

 

 テレビ批判がメインテーマではない。ただの一例であるのだけれど、みんながそれを当然だと受けいれていても、何回かは疑って観たほうが良い。歴史を大いに鑑みて、疑ってみるべきだ。自分のことも含めて。そういいたいのである。

 

 その結果、煩雑な状況に自分は陥るかもしれない。でもやっぱり他者を人種で差別するのはおかしい。自分たちを擁護するために、自己肯定を脅かす、正しいことを唱える誰かを殴打して殺すのはおかしい。拠り所は、自分で考えて正しいと思えるかどうかということになるだろう。もちろん照らし合わせる自分が間違っていることだってある。だから教育というか教養は大切なのだけれど、それが故に歴史や知識を真摯に学ぶ必要があるのだけれど、まずは何より「一回、できれば数回、自分でちゃんと考える」ということをしたい。されたい。有名人が言うことを、いかにも正しそうな人がいうことを疑って自分で考えたい。とてもいい人そうな人であっても、その人の言うことが正しいかどうかは都度自分で考えたほうが絶対良いはずだ。センメルヴェイスは殺されるべきじゃなかったのだ。

 

 だから「普通」という言葉が出てきたら、いつだって警鐘として聞くべきなのである。

姿勢と値段

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 レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の中でよく覚えている1シーンがあって、それは、依頼人に会うためにホテルを訪れた探偵フィリップ・マーロウが、待ち合わせのバーへの移動中にホテルのバーに目を見張るようなブロンドの美人を認めるシーンである。その女性をつかの間見つめていると、彼女が誰かと会話して大きな口を開けて笑うのだけれど、その途端にマーロンは美女への興味を失う。

 

 高嶺が魅力なら、例え美女でも安っぽいと魅力がなくなってしまう。女性に限った話でもないか。男性にも当てはまるけど、資産家であろうと高価な腕時計にキズがつかないかどうか気にしていたりするとやっぱり安っぽい。ワインをまとめて買ったと思ったら単価を何度も売り主に尋ねたりするのも(先日ちょっとそういう方を見かけたのだけれど、何かしら事情があるのかもしれないけれど、傍目からはいくぶん)安っぽい。(その御仁の後には、来週もフランスだかスペインだかに行くのだけれどと言う暇があるのに試飲ひとつせずにワインを一本買っていくご婦人がいて、彼女はその中で一番安いワインを買っていった。そういうのもやっぱり安っぽいじゃないか。)

 

 安っぽいというのは、言い変えたほうがわかりが良いが「つまらない」ということである。美人なうえに、知的だったりすごく意地悪だったり車の運転がとても上手だったりするとものすごく興味深くなる。高嶺感が高まる。資産家なのに謙虚で知識が豊富で良い身体であるほうが「おもしろい」。

 

 人を見て「安い・高い」と感じることが多々あるのだけれど、それはそのまま「つまらない・おもしろい」という意味でもあるが、ではなぜそう言わないのかといえば、たぶんどこかでお金の気配が関わってくるからかもしれない。

 

 日本人は、お金のことを言うと卑しいと考える先入観を数百年規模で植え付けられて来ているから、お金をあからさまに扱うと眉間にシワを寄せがちな気がする。しかし能力があればある程度稼がないと(森の中で暮らしてそこから出てこないのであれば別かもしれないが)、大切な誰かが困ったときに単純に助けられない可能性が高くなる。子どもの能力やポテンシャルに相当するチャンスを与えず見送らざるを得ないことだってあるかもしれない。そして何より収入が高くなるほど、品性が高くなる傾向がある。コンビニでは、取っ手があるのにガラスに手をべったりつけてドアを開ける人が珍しくないが、高級なホテルでそういうことをする人は比較的少ない。バーでもラウンジでも誰も大声で会話をしない。もちろん金持ちでもゴミみたいな品性のかけらもない人間はごまんといる。本当に。でもお金がない人のほうが全体的に見れば品性とかマナーは低くいのは、否定し難いではないだろうか。本当にそうか否かということを問う積りが今はないし、その是非についても追求したいわけではない。ただ僕が人を見て内心で「安い・高い」と直感的に感じて、その言葉を遣う背景には、安いところでは粗野な人が多く、高いところでは品性が「比較的」高い人が多い、という経験がある。

 

 以上が前置きになるのだけれど、姿勢や歩き方が悪いと「安っぽく」見えちゃうよ、ということが今回語りたい主題である。服や靴、時計やバッグなどアピアランスにしっかり気やお金を使っても姿勢や歩き方が悪いと「安っぽく」なると僕は思っている。

 今から触れるとある店でみかけた一組のカップルについて前置きしたいのだけれど、彼らを何かしら糾弾したいわけでも非難したいわけでもない。隣の僕らにも他のお客にも迷惑をかけたわけでもない。何も悪いことはしていない。僕ら(というのは僕と妻)も彼らのせいで気分が悪くなったわけでもない。だから悪くいうような感じにはなると思うのだけれど、非難はしてない。そこは誤解しないで欲しい。と断った上で、

 店に入って彼らの隣に座るときに気がついたのは、女性の姿勢が良くないということだった。綺麗でタイトなワンピースを着ていて、少しミニスカートぎみになっていることもあってなかなか魅力的なアピアランスとも言えなくもないと思う。髪もちゃんとボサボサしたりなんてしていなかったし、臭くもなかった。姿勢以外は見た目は何も悪くなかった。しかし姿勢はゲームをしている中学生みたいに猫背だった。冒頭のマーロウではないが、なかなか興味が急減した。(妻といるのに他所の女に興味を持つことからして間違っていると言われれば、反論したいが僕は妻を愛しているが、目に入る女性を見ることを控えることはできないほど女の人が好きである。もう人格の問題であり、そこは是正するつもりがない。)蛇足を括弧で語ってしまったが、姿勢が悪いというだけで、安っぽそう=つまらなそう、なのである。

 次に気がついたのは、良席(そのときは奥側の席)に男性が座っているということである。若くもなく、四十代中盤から後半にかけた男性がである。しかもボッテガ・ヴェネタの財布だったから、ある程度金に余裕もあるはずである。若い女性を手前に座らせ、自分がしれっと奥側に座るというのは、こちらも「さもあらん!」とばかりに安っぽくみえる。

 

 その店は、人気の店で予約なしではあまり入れない店で、さほど高くないのにものすごく美味しく、そして接客も素晴らしいところだった。雑誌にもよく出ているのか若い女性客も多かったが、基本、お客さんは皆マナーをちゃんと心得ている人が多い。人気がゆえに多様なお客さんが来店するようになっていたのかもしれない。

 

 あらためて断るけれど、彼らを非難はしていない。だれにも迷惑はかけていない。勝手に男性が良席に座って、勝手に女性がそういう男性と一緒でもしかたないかなーと思わせるほど姿勢が悪かっただけである。僕が今回言いたいのは、彼女の姿勢を見て一緒にいる男性をみて、「さもあらん!」と思ったということである。姿勢が悪いと品性の低い男性と一緒にいるのが「お似合い」に見えてしまう、ということである。

 

 学校でも会社でもあんまり学ぶ機会がないが、姿勢や歩き方が、傍目に安い・高いを判断される材料になり得るんじゃないかな、ってことを言いたいのである。だからうちの中でも外でも姿勢は重視すべきである。しゃがみ方ひとつで、優雅だったり、がさつに見えたりする。ヒールは日頃から履きなれておいたほうが良い。ならばどんな姿勢が良いのか、ということになるが、それはもう「良い姿勢ってどんなんだろうか?」という目でリッツ・カールトンでもパークハイアットでも(帝国ホテルは人が多すぎるからお勧めしない)良いホテルのラウンジで行き交う人達やホテリエの所作をみていると自ずとわかってくると思う。たんなる安く見えないということ以上に、良い動きをする人は、示唆的で、それはやや色気も含んでくる。だから男女ともに良い姿勢であることを口臭と同じくらい気を遣ったほうが良いと僕は思っている。

 

 ちなみに先のカップルの男性は、お会計のときに大きな声で「すみませーん!」と叫んだ。居酒屋ならぜんぜん良いのだけれど、小さくも素敵なその店でそれはしてほしくない。他のだれもそういうことをしないように気を遣っている。声をあげるというとは、店の人が客に目を配りきれていないというような意味に取られるし、何より客も店の人たちもちょっとした目配せでやりとりすることに「自分が今素敵な空間にいる」ということを楽しむことができているのに、それをぶち壊されるからである。素敵な店は、店の人たちと客が一緒になって作るところがある。そういう店では「すみませーん!」と声をあげちゃいけない。空気を安くしてしまう。もちろん、店や周りが安くなるわけではない。素敵な空間に水を注さないでくれ、という意図で言っている。これは余談のパラグラフだけれど。でも強く言いたい。強く言いたい余談である。

 

 寝相なんてどんなにひどくても許されたいし、許すべきである。いびきも。寝ている間に鼻をほじってもである。でも起きているときであれば、きりっとした姿勢でいたいし、いて欲しい。綺麗に歩いて欲しい。誰も見ていなくても。自分は見ているから。自分が自分を素敵であると思得る根拠を増やすことはとても良いはずである。

心の鍛え方

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 前回、メンタルって大切ということを書いたので、今回はその鍛え方について書きたい。

 

 結論から言えば、「問題を発見して、それを単純化して挑みつつ、本を大量に読み、身体を鍛えて、たまに選んで人に会う」ということになる。分けて書くと

 

1.問題の発見 

 

2.単純化

 

3.本を読む

 

4.運動

 

5.人に会う

 

となる。

 

 そもそも「心を鍛える」というのは何を目指すものなのか。ということを先に明確にしておきたい。『岳』という山登りの読む人を元気にする漫画があるのだけれど、その17巻(18巻で終わり)にこういうエピソードが紹介されている。エベレストに挑むにあたって死を意識することも大事だが、それに囚われてはいけない、という格言めいた助言を補完するために紹介されたものなのだけれど、ある山で吹雪にあって下山できぬままに過ごすことになった二組があった。二組とも同じ山で同じ環境の元にあった。一組は、幾日も吹雪が去らない間、雪洞の中で皆「自分たちは生きて下山できるのだろうか、吹雪はいつ去るのだろうか」ということを考え続けて陰鬱と過ごしていたそうだ。手記により、それを知ることができた。もう一組(というか一人)は、「よく吹雪くねぇ」という体で、「何も考えずに」過ごし続けたそうだ。前者は皆死に、後者は前者の遺体まで回収しながら生きて下山したという話である。

 もちろんフィクションなのだけれど、なんとなく本当らしい気配がそこにあるように僕は感じた。心を鍛える、というのはこういうことなんじゃないかな、と僕は考えている。生き延びるための思考の在り方を身につける、ということだ。試合や勝負に勝つ、ということでも良いし、ビジネスで成功するということでも良いし、なんとかうまくやっていくということでも良いが、そういう主目的に対して、心の有り様を最適化させる……、いや「最適化」などと小難しく言わなくても良いだろう、「折れちゃわない」ということだ。しなってしまっても良い(一回逃げちゃっても、後退してもいいけど、先に進もう!という気持ちを持ち続ける)。

 

 僕は、レコード会社やカフェを経営してテレビにも良く出ている方の著書で、「落ち込んでも意味がない」という考えを読んで、しごく得心したのだけれど、それでも、ちょっとした刺激でミジンコにでもなってしまいそうなほど落ち込むことが多々ある。理屈でわかっていても、心がついてきてくれないのである。だから、やっぱり鍛える必要があるのだろう。

 

1.問題の発見

 AIに出来ないこととして、誰が語っていたのだけれど、それは問題を発見することなんだそうだ。AIは問題を解決することはできる。しかし問題を発見することは、人にしかできないそうだ。少なくとも、想定の中では。

 

 生きるのがつらいとか、死にたいとか、なんだかもう参っちゃいそうだとか、悪夢しか見ない等、人にうまく説明できないことに苦しむということは良くあるのではないだろうか。そういうときには、周りがやや恨めしく思うこともあるだろう。僕は、正直小学校に入ったあたりから40歳になるくらいまで、誰にもそういうことなく、無意識に心の中で「助けて」とつぶやいて過ごしきた。心理学まで専攻したのに、それがなぜなのか良くわからなかったし、だんだんわかってきても、理由が分かったところで、それからどうして良いかわからなかった。

 しかしその一方で、何を求めているのかは少しずつはっきりしてきた。それは「必死」だった。好きな漫画に共通していること、それはみな主人公たちが必死になって何かを得ていくということだった。そこをフィクションに求めてかりそめに満足したくない、という考えに、少しずつ固まっていった。

 ということで僕においては、問題は「どうやったら必死になれるのか」ということだった。バスケで全国優勝とか、ゾンビだらけ世界で生き延びたいとか、そういう理解しやすいものである必要はなかろう。個人的な問題なのだから、個人的で構わないはずである。

 

(少し話がながくなりそうなので、駆け足気味で以降書く。)

 

 

2.単純化

 問題を発見したところで、その問題事態があやふやのままであることも多いし、そもそもうまいこと言語化できないでいることも多い。言語化したところで、なんだか複雑だったりする。そういうときは、物事を気楽にしつこく分解して、すごくすごく単純化してしまうのが良い。英語をマスターしたいときに、まずは英語の本を一冊読んで読んでみる、とかまずは単語を10暗記してみるとか、とにかく成果がはっきりした課題にしてしまうのである。そうするとそれが短かろうが、低かろうが、確実に前進しているという実感を得られる。

 のみならず、一歩前に進むと見える風景が変わるのである。不思議な話、それがわずか1センチ程度の前進でも、前進してみると次の一歩がどこら辺に向けて降ろすべきなのかが見えてくるのである。だから複雑そうな問題を「要は」という乱暴な分解を施して、どこに向かって何をすべきかということを仮説で構わないので、決めちゃうのである。間違った1歩でも、進んでみると間違っていたことはわかる。何もしないと何もわからない。とにかくすごく単純化して、腰が重いなら重いぶんだけ、ハードルをさげる。1mmでも前に進むほうが、停滞しているより100%良い。

 

 

3.本を読む

 進み方とか進んでいる方向とかが正しいかどうかということを検証するには、知識が不可欠である。そして知識というのは、真摯に求めるぶんには、けっこう素直に得ることができる。単純な話、人より本を読めば良い。「幸せになる方法」という類の身も蓋もないような類の本でも、まあ良いと思う。読み始めは。でも多少でも慣性が味方につき始めたら、古典とベストセラーを読むことを勧めたい。自分の趣味を無視して。今の流行と昔の流行を読めば、その差を含めて、バランスを得られる。すると良書と悪書の差もだんだんわかってくる。時間のスクリーニングを経た古典とカッティングエッジな今耳目を集めているものを読めば、そうそう足元が狂わないじゃないだろうか。それにすごくシンプルである。kindleを使って読めば、スマホで読めるから、混雑した電車の中でも読める。その上、あと何分で読み終えるかも計算してくれる。

 

 余談だが、ビデオゲームの類は、本質的には人の前の向きな向上心を動機としている。「時間をかければかけるほどレベルアップする」のだから。それを数値化して明瞭にしているから心地よいのである。しかし現実もほんとうは遠からずで、たいていのことは時間をかけた分だけ上達すっる。私たちが生き延びるのに、必要なのは心の強さもあるが、それを形成するのも補完するのも知識である。だからゲームにかける時間と金を知識につかうのは良い。すごく単純に、心の鍛え方そのものも本から得ることができる。ネットからだったらより平易に得られるのでは?と考えるかもしれない。でもたぶんそれは違う。ネットで調べるのはすごく良い。それだけで得られる知識はいっぱいある。だけど何故かわからないが、本から得る知識は、食事のように血肉になりやすいように感じる。ある種、等価交換の感覚なのだろう。手軽に得られる知識は、身離れが易い。安い服は長持ちしない、みたいなところか。違うかもしれないが、直感的に本は、知識を得る果実としてはより良いものだと僕は思っている。

 

 

4.運動

 運動が身体に良いか悪いか諸説がありまくりなのだけれど、僕らの脳がどうやって発達してきたのかを鑑みると、運動するほうが普通なのだという観に至りやすい。心も脳も筋肉と同じで鍛えれば強くなるそうだ。一緒に鍛えたほうがバランスが良いじゃないだろうか。これもまた本を読めば、運動をすることのメリットがいろんな本で散見されるはずである。だから本を読めば読むほど運動をするように、自然なると僕は思っている。

 

 

 

5.人に会う

 本を読みまくって、運動していると、それらが個体の中で成長する知性であって、社会と相対した時のバランスが図られないままである。そういうデメリットが故にというよりは、人に会うととたんに「あ!そうなのか!」(ユリイカ!)という発見に出会うことがある。だから人に会うのはとても良い。でも本をいっぱい読みながらである。本を読んでいると知識のレベルが上がる。人より読めば、多少の差こそあれ、ゲームのように単純にレベルアップする。知識が。それにともなって世界が拡張する。空がなぜ青いのか知っている人がみると空としらない人が見るそれは、違う。そうしていると人の精度のようなものが少しずつ見えてくる。すると会いたい人がだんだんわかってくる。そして会うとかならず得るものがある。

 

 

 本を読んで、運動して、人に会う。それ以前に自分が何を求めているのか暫定的にでも発見し、そのためにすべきことを単純化する。

 

 

 そうすれば、人はたぶん、必ずより生き延びやすくなる。自分の心のうちから「助けて」という言葉が消えていく。酒やドラッグに逃げなくて済む。人と自分を較べてひがんだり、自慢したりしないで済むようになる。なぜなら本を読めば読むほど人生がどれほど短いものか、知るに至るから。長くなったけど、実行するのにそんなに難しいことではないはずだ。居丈高に聞こえたかもしれないが、実際ところ、僕はこれを僕に向けて書いた。

 

メンタルは肉体より大事だろう

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 日本人は、たぶんだけれどメンタルの部分を直視するのを、欧米人に較べて、避ける傾向があるように思う。心のケア、なんて受けなきゃいけないってことは、すでにメンヘラということになって、社会的に敬遠される存在と思われかねない、と考えているのではないだろうか。旧態依然にすぎるのでは?と思われるかもしれないが、実際のところ、思った以上に旧態依然であり、目に見えないからか、触れてはいけない領域として扱われている。

 

 という前提が、状況を悪いまま放置することになっている気がするのだけれど、私たちは、心を大切にするということをけっこうおざなり……というよりは、なおざりにしている。

 

 心を病んだしまったり、病んでしまった人を近くで見たことがある人は、分かると思うのだけれど、治すがなかなか大変である。何年もかかったり、なかなか完治しなかったり。そうするけっこうな寄り道をせざるをえなくなる。それを避けるために、まわりや常識に囚われず、せめて自分だけでも自分の心は大切にしたほうがぜったいに良い。

 もしもう病んでいるもしれない不具合を感じたら(肉体的に現れることもあるだろう)、複数の病院にいってみちゃったほうが良い。その際、病院や病気について、いろいろと自分で調べることも大切だ。『The Patient as CEO』の著者、ロビン・ファーマンファーミアンさんは、難病にかかって大変で、医者たちの言うことに耐えられなくなって、メディカルチームを解散させて、自分で徹底して調べてから、またメディカルチームを再編した。そうして治療法をがらっと変えて、日常的だった苦しみから開放されたそうである。だから、自分で徹底して調べるってことは大事で、医者が最新の情報に精通しているとは限らないのである。彼らは忙しすぎるかもしれないが、医療の常識はものすごい速さで変化している。そんなわけで調べて、複数の意見を聞いて、というのがとても良い対処だと思う。英語でよければ、興味深いアプリやサービスがいっぱいフォーブス日本版の10月号に載っている。

 

 もし病んではいないのであれば、日頃から心のことを大切にするように心掛けたほうがずっと効率が良い。太るのと一緒で、太ってから痩せるのはものすごく大変だけれども、太らないようにするのは、それほど大変ではない。同じように、心が参ってしまったあとは大変だけれど、参らないように心がけるのは、それほど大変ではない。

 

 タイトルでは、肉体より大事と謳ったが、心も身体もだいたい同じものだから、どっちも大事で、心を大切にするためにまず何よりも大切にすべきなのが身体である。ちゃんと寝て(7時間くらい)、毎日散歩するだけで、いろんな病気(肉体のものも含めて)を避けることができるようである。「そんな時間などない」といって、無理をして心がだめになってしまっては、仕事も家庭も結局壊れてしまいかねない。バフェットを読むまでもなく、ちょっとさきのことを考えてみたほうが良い。寝ないで頑張るのが一所懸命ではぜったい無い。あなたが生きるか死ぬかの手術を受けるときに、医者が壮絶な手術をいくつもこなして4時間しか寝ていない人だったら、絶対いやなはずである。良い仕事をする人は、ちゃんと寝ている。例え、秋元康がぜんぜん寝ていなくっても、だからと言って寝なくても良い根拠にしないほうが良い。ギリギリまで追い込んで見えるものもあるかもしれないけれど、たぶん違うと思う。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、できるだけいっぱい笑って(作り笑いだっていいそうである)、運動をした上で、一所懸命になるべきである。

 運動に関しては、身体に良いのか悪いのか、諸説がありまくりなのだけれど、僕が読んだ『脳を鍛えるには運動しかない』は、なかなかおもしろく、それによれば有酸素運動36分を週6回だったかな? が最良だとか。いずれにしろしないよりしたほうが良いとのことで、僕は今暫定的にではあるが、ジョギングをできるだけ7キロ毎朝、週2回プール、月曜日の昼はボルダリング、月1、2回はキックボクシングのパーソナルトレーニングを受けている。

 思い込みもあるのかもしれないが、そして思い込みであっても、なんら問題ないのだけれど、やっぱり運動している方が、心が元気である。

 

 「我慢するのが正しい」という世界観は、僕らは教育の過程で洗脳されがちだけれど、できるだけ早々に捨て去ったほうが良い。ストレスというものは、だいたい良くない。適度なものは良いこともあるが、基本的に良くない。ストレスに勝つのは、使命感である。それがあれば、過酷な状況でもけっこう元気でいられる。とは言え、何も無理に過酷にならなくても良いはずだ。

 私はデザインの仕事をしているのだけれど、お客さんのひとつに残業をまったくさせない企業があるのだけれど、そこの企業の方々は仕事がすごく速い。その企業との付き合いから、私は仕事をちゃんと効率よく進めるには残業してはいけないほうが良いのではないか、と思うようになった。正解だと思っているのだけれど、それは過酷ではないはずで、でも一所懸命ではあり、そして良質な仕事をする環境でもある。だから、自分を追い込むのが理想の姿勢だという考えは、ちょっと違うかも?と思ったほうが良い。時間を制限することを「自分を追い込む」と言えば、そうなるけど、「徹夜してやりました!」という仕事は、私からするとクオリティに疑いの目を向けたくなるものでしかない。ちゃんと寝て、ちゃんと食べてやってくれた仕事のほうが信用できる。

 

 私たちは、思ったよりやっかいな思い込み教育を受けているので、都度都度疑ってかかったほうが良い。学校の教育というものは、むしろ疑ったほうが良いものばかりだと思っている。一方でリカレント教育という大人になってからの教育・学習がとても重要になってくるだろうと思っている。社会に出てからの方が、勉強すべきことが多い。たとえば、この「メンタルを大切にすべき」ってことなんて学校では教えてくれない。異性の口説き方も教えてくれないし、段取りについても教えてくれない。お金の扱い方、喋り方も教えてくれない。縄文時代についてなんて何一つ知らなくて良いが、明治前後の歴史はとても重要だし、アメリカがしてきたこともかなり知っておいた方が良いし、キリスト教の文化や脈絡を知っていると映画、文学、演劇など理解できる部分がすごく増えてくる。

 

 そんなわけで、心を鍛えるためには、いっぱい本を読んだほうが良い。それも読みたいものに加えて、他の人(尊敬できる人が良い)が読んでいる本も読みたい。小説から学術書、ビジネス書、詩などいろいろと広く。私たちは、フィクションや歴史などいろいろな視座から、世見や自分を見ることができるようになればなるほど、健全になり、且つ生きていることがおもしろくなっていく。

 

 心というものは、本当のところ世界の全部である。人からの心がなくなれば、この世界は消える。肉体も現身もみな心あって意味をなしている。なのに心を蔑ろにするのはおかしい。そして逆説的だけれど、心を鍛えるには、身体を鍛える必要がある。身体を労る必要がある。何はともあれ、ちゃんと寝ることであるし、それからちゃんと食べること。食べてもあまり太らないで済ませるために、筋肉をつけること。それから本をいっぱい読むこと。おもしろい人に会うこと。そしていっぱい笑うこと。

 

 あなたが元気なことで、救われる人もいるし、良い仕事が増えるし、世界はより良くなる。そのほうが良いでしょう。

 

 

Let's get physical.

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 世の中の人はおおむね忙しいから、運動をしている人は比較的少ないと思う。寝る時間を少なくともある程度確保したらもうあとは仕事かあるいは家庭への時間で24時間オーバー気味だと感じてしまうのではないだろうか。

 

 でも、「ようは」という視点で生命や人生を眺めると、それはスティーブ・ジョブズの言う「今日死ぬとして何をするのか」という自問と同じであり、ガンジーの言う「今日死ぬとして行動し」と同じなのだけれど、一等に大事なものは何か、と問えば、天涯孤独でないはとき、たぶん愛する存在たちであろうし、社会に対して使命を感じてる人たちであれば、その使命を考えるだろう。それは三日三晩寝ずにやれば守りきることができるものでは、ない。だいたいの場合は数十年大切にし続けなければならないだろう。自分ももちろんそこに含まれる。我なくして何を為すのか、というわけであるから、自分も大切にしなくてはならない。

 

 そう考えると肉体というものは、おざなりにはできないことになる。遠くまで進みたいと思うものが、例えば車に乗るとして、ガソリンや車の状態をおざなりにしては、進みたい場所まで進めないリスクが増えてしまう。

 

 だから身体は大事で、そのために運動すべし!と言いたそうで、ちょっと違っていて、運動を通して得る感覚のことを今日は述べたく、それは何かというと意外なことに、自分の輪郭に触れるような、アイデンティティに関わってくるのである、ということになる。運動は。

 

 どこまで走れるのか、どれくらい走れるのか、つらいのか、楽しいのか、走れば走るほど、思考は後景に溶け、自分の中心が身体に寄り添うように純化していく。それは、たぶん良いことなのだと思う。自分が生きていると感じることができる。

 

 僕は、さほど上手ではないのだけれど、ボルダリングというスポーツを週一楽しんでいるのだけれど、それは何も点けずに落ちてもさしてケガをしない程度の壁を登るスポーツなのだけれど、それをやっているとイメージした動きができない自分を知り、少しずつイメージどおりに動けるような成長も楽しめる。同時に、油断すればけっこうなケガもしかねないので、生命の危険(大げさに聞こえるかもしれないが、足を滑らせててしまえば、手がホールドから離れてしまえば、落ちてしまうという状況はなかなかの恐怖なのである。

 

 このスポーツの楽しいところは、まったくもってどうやったらできるのかわからないという課題が、出来るようになるという小さな経験を積み重ねられるということである。「私には無理!」というのは課題は優しすぎ、優しすぎるくせにぜんぜんわからない!わかってもなかなかできない!というフィジカルをともなったメンタルの経験は、自分の生命に対して、ある種のタフネスを与えてくれるようになる。

 

 肉体と精神のつながりをリアルに感じるようになる。健康至上主義を謳いたいわけではない。自分の限界を知り、それが拡張されていく実感は、心にエールを送ってくれる、それはゲームのように研鑽したぶん実直に成長を保証してくれるかに見え、やった分だけってこともなく、保証がないのに、ある種の予感だけたよりなさげに与えてくれて、それをちょっと馬鹿みたいに信じたときだけ、成長が気まぐれに顔を出してくれる。

 

 知性、知力の鍛錬に読書や勉学が有効ではあろうけれど、あべこべにおもうところがなんとなくあって、知性を磨くのに肉体を、肉体的な進歩・改善には知性が、役立つ、という具合があるように感じる。『The Patient as CEO』という本を書いたロビン・「ファーマンファーミアンという若い女性は、自分のクローン病に苦しみつづけた結果、自分で医療の最先端を研究しはじめて会社までつくってしまっている。

 

 

 自分で書いていて、そこそこ意外な結論になったのだけれど、欲しいものと違うものとこらから得るものを重視したほうがいいじゃないか、という結論を述べたい。仕事の知識が欲しい時、フィクションとか科学や宗教の本から学ぶことがありえるし、運動について何をえたいとき、経営学から得るられることがあったりする。たぶんそういうことをすると自然、視野が広がるのだろう。だから忙しい人ほど、僕はなんとなく運動をしたほうが良いように思う。それが健康に良い悪いということではなく。

 

 僕らも愛おしい人たちも嫌いな人たちも皆、死ぬ。その事実は、生命の密度を高めてくれるのだけれど、肉体の主張は、自分たちの輪郭と現状や限界を浮き彫りにしてくれる。触られて自分の身体の温度を感じるように。世界と自分の境界線を知り、それが広がる感覚は、けっこう生きるヒントを僕らに与えてくれるんじゃないかと思う。