シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

良い店はどこにあるのか

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 以前『「出会いがない」という人が買う宝くじは当たらない』というタイトルで出会いが欲しかったら、良い店に一人で通うのが良い、ということを書いたのだけれど、読んでくださった方から「では良い店はどうやってみつければ良いのか」という質問が来たので、それについて答えてみたいと思う。

 

 そもそも「出会い」という言葉が少々胡散臭いのだけれど、とは言え、それがなければ、人生はどうにも変わらず進まない。恋愛ということに関してはもちろん、その他、仕事も含めて、どんな人たちとつながっていくかということが、とても重要ではあろう。

 

 さっそく結論だけれど、良い出会いを期待できる良い店を見つけたければ、まず良い地域へ引っ越すべき、ということになる。「良い」の定義を先にしてしまうけれど、「自分の求めるライフスタイルに近い」ということが、「良い」という意味になると思う。だからまず自分がどうなりたいのか、ってことを少しずつでも考えなくちゃいけないのだけれど、それはちょっとうっちゃっておいて話を進めたい。「素敵な異性と出会って、仲良くなってあわよくば付き合いたい」って次元で考えるとわかりやすくなる。では「素敵な異性ってどんな人?」と考えれば良い。やさしくて、収入もよくって、教養もあって、話も面白くて、いい匂いがして、キスも上手で、セックスの相性が良くって、おしゃれで、周りからもちょっと羨ましがられるような人、なんて感じだろうか。べつにぜんぜん違っていても良いけれど。

 これについてまず触れておきたいことがあるのだけれど、それは漫画『アラサーちゃん(無修正)』の最新巻の5巻の中で描かれていたことでもあるのだけれど、「高学歴高収入と付き合うのに一番良いのは、自分が高学歴高収入になること」ということだ。教養のある人は教養のある人を選ぶし、だいたい人は金銭感覚が近い人と遊ぶ。テレビ番組『ホンマでっかTV』で心理学者の植木理恵先生がおっしゃっていたはずなのだけれど、自分の仲の良い友だち10人の平均年収が自分の年収と。そんなわけで、素敵な人と付き合いたかったら、自分が素敵にならないといけないわけである。人の魅力は外見だけではなくて、もう少しいろいろと構成要素がある。面白いとか知性とか品性とか清潔であるとか野心と実行力があるとか、いろいろ。ちょっと冷静になって世見を見渡すとその現実はけっこう散見されるはず。

 

 一度言わずにおいているうちに忘れたくないから余談をしたいのだけれど、日本は恋愛意識がかなり未成熟な国だということについて触れたい。高度成長期に夫婦に役割分担を明確に分けた感がある。夫はがむしゃらに外で働く、妻は家庭を維持して子供を育む。妻は母親専業になり(例え働いていても妻というより母のまま)、夫は(さして稼いでいなくても)稼ぎ頭。妻と夫の間は異性同士ではなくなり、夫はキャバクラや風俗で恋愛刺激を得て、妻は単純に我慢する。そういう合理的な流れは敷衍して、カップルのセックスの場所は時間性のラブホテル。終電でも帰れるし、コンドームもあるから安心。結果、男女は(特に男は)、頑張って素敵な部屋に住んで、清潔に保つという意識を捨てる。出会いすら、合コンというシステムで済ませる。結果、惹かれる異性に頑張って近づいて口説くという経験はしない。(だからつまらない男が多い。)セックスは、実地ではなく、アダルト動画で学ぶから、下手な上に失礼。エトセトラ。合理化の結果、日本の男女は性的に未成熟である。男性は、例に挙げたように不甲斐なく、女性だって口説かれるべき魅力を身につける努力を怠りがちではないだろうか。ラブホテルというものが欧米にはない(韓国や台湾、香港にはあるけど)。

 そんなわけで僕が思うに、日本の(比較的)男性は、性的に、恋愛上で、未成熟な方が多い。日本の歴史的な男女観の影響ももちろんあるのだろうけれど、それ以上に合理化の影響の方が大きいと思う。

 

 だから(以上で余談は終わったけれど)、良い男は、思いの外少ない。そんなわけで女性が良い男性を見つける、ということを考えると、貴重な良い男に見合う女にになる必要がある。(べつに逆だってそうだけど。)

 

 さて、そんなわけで良い恋愛対象とであるために、どうやって良い店を見つけられるのか、というと、まず良い街に住む必要がある。自分の求めるスタイルに近い場所という意味だけれど、所得と品性はある程度比例するので、家賃の高いところの方が良いということにもなる。多少無理して、良い地域に住むことから始めるべきに思う。しかし無理は続かないから、そういう環境で暮らし始めたら、収入を増やす方法を考えることになるだろう。転職なのか副業なのか、独立なのかわからないけれど、なんし自分が自分で理想に近づく努力はしないとならない。面倒だけれど。自分が馬鹿で貧乏なのに、頭が良くて金持ちの誰かに見初められるってことはない。

 

 そこまでしたら、おおむね、いろいろと出会いは発生するはずである。誰もが努力の途中でいるだろうけれど、努力している人は努力している人に気づくし、努力していない人は努力していない人と惹かれあう。例外もあって、恋愛以外で成功しているのに、恋愛だけうまくいかないという方もいるが、その場合はまずはプライドをぜんぶ捨ててしまう必要があるが、これはまた別のテーマになるから、今は詳しくは触れない。

 

 けっこう一貫して、要になっているのは「自分がどういう人間になりたいのか」ということを突き詰めるということである。多くの物語やドラマが示す歪められた「素敵な奥さん」とか「やり手のサラリーマン」とかステロタイプな人生は、無い。松濤の3億円くらいするほどほどの一軒家に住む綺麗な奥さんはいるけれど、彼女には彼女でいろいろな面がある。それに人生は続き、歳は重ねていく。成功者と言われる人たちに挫折を知らない人はものすごく少ない。政治家はみんな悪いわけじゃないし、保健室の先生は、ミニスカートを履いていない。ハリウッド映画の法を超えて正義を敢行する勇敢な主人公のほとんどが人を沢山殺しているから、本当なら絶対刑務所行きで、二度と出てこられないはずだ(どんな悪党でも個人が勝手に人を殺して良いはずがない)。言いたいのはフィクションが作り上げるいかにもな人生はないから、自分で自分の「こうありたい」を少しずつ作っていく他ない。人の決意なんてそんなに続かないから、一番良いのは環境を変えることで、環境とは、住む場所、職場、友だちである。

 

 良い店、がそんなに簡単な話にならなかった。自分のなりたい自分を探しながら、友だちや職場や住む場所を変えていく過程を経たら、自分が出会いたい人たちがいる場所を探すのは、そんなに難しくないはずだし、もしわからなくても「その時の」友だちの誰かが教えてくれるはずである。

 

食の領域

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 音楽や酒にもあるっちゃあるけど、食ほど、見えない、語られない、それでいてけっこう厳格なレイヤーというか境界線があるものはない。この境界線について語られることは、なかなかないように思うので、少し触れてみたい。

 

酒なんかは、今回言わんとする境界線についてわかりやすいだろう。大学生の酒についての知識と四十前後の大人のそれはずいぶんと異なるだろう。それも、たぶん所得が多い方になればなるほど、知識の幅は広がる。というのも、大人になればなるほど、欲と関心の矛先が筋肉(ほんとに!)と食にフォーカスされていくものだからだ。筋肉はさておき、食に楽しみを見出すように徐々になっていく。セックスも一通りしてきたら、そんなに強く版図を広げんとする欲は落ち着いていく。贅沢と自信は、やや相反するところがあり、自信がつけば付くほど、虚栄心が減るので、ほどほどの贅沢で良くなる。しかし、美味しいものを食べたいという欲は、そうそう減らない。金銭的余裕があればあるほど、それを追求するのが容易になる。高級な領域から着手できるし、良いレストランに行きやすい環境があるから。

 

 ちょっと前置きが肥大してきたから、結論から遠のくから先に結論を書いておきたい。明確に語られることのないままに食のスタンダードの違いが、その人が属している食の領域を思っている以上に切り分けられる、という事実があるぞなもし、というのが結論。知識の上位が下位を切り捨てる;自分の属している領域とは違うのだなと諦念側にカテゴライズされてしまう、ということである。

 

 ということを知っておいたい方が、若い子なんか特に、たぶん良いじゃないかなという老婆心が、今日これを書いている動機である。選民思想でもないし、食に造詣が深いほうが偉いというわけでもない。ちょっとは、詳しい人のほうがそうじゃない人より人生が豊かだろうにと思うところはあるけど、上位が偉くて、下位が愚かじゃ、ということが言いたいわけじゃない。アクセントでどこの大学出か分かるようなイギリスの見えない不文律みたいなものが、食にある、ということを喧伝したいのである。

 

 酒がわかりやすいと先に触れたけれど、ビールだ、ジントニックだ、カシスなんちゃらだというのが大学生たちがカラオケボックスや居酒屋経由でぼやっと頭にある酒の知識だろうとして、大人になって少しずついろんなことを覚えていく。ウィスキーだったら、シングルモルトやブレンドしたものを知ったり、産地での味の違いなども知っていくだろうし、ビールにだって多くの種類があることを知り、知った結果、好みが生まれたりするだろう。こういうのはわかりやすい。もっとわかりやすいのは(だったらそれについて例えを終始させろよと思わるならば、いやはやその通りです。さっきは思いつかなった。)、コーヒーで、インスタントコーヒー→スーパーで買えるようなもの→カルディで買えるもの→スタバ→スペシャルティコーヒー→(値段でいえば)川島良彰さんの空輸してくるシャンパンボトルに入ったコーヒーといった感じで、レベルみたいなものの違いがある。スタバでコーヒーを飲む人は寛容な人も多いだろうけれど、スペシャルティコーヒーを専門店で買う人の多くは、おそらくインスタントコーヒーやカルディのコーヒー(カルディのコーヒーが駄目ってわけじゃないんだけど、金額が2〜3倍違うから、やっぱりその分、素材や手間暇が変わってくるから、スペシャルティコーヒーのほうが美味しいよね)をできるだけ飲まないだろう。でも、コーヒーのレイヤーって、異なる者同士が、それほど厳格に相手を自分とは違う領域の人として切り分けたりはしないだろう。比較的。しかしこれが食ってことになってくると、とたんに厳格になる、気がする。

 

 美味しいものが好き歴を重ねるとある時点で、化学調味料を受け付けなくなる。化学調味料を使わない食生活を送り続けると、化学調味料の入った食べ物を食べるとそこに明確な違和感を覚えるのだ。例外もあって、ノスタルジアに含まれる化学調味料はときおり恋しくすらなる。例えばカップラーメンとか、チキンラーメンとか。ときどき食べたくなる。それは、そういうものを食べた楽しい記憶が作るノスタルジアがあるからだ。それに、たぶん厳格に「NO! 化学調味料!」という自分がなんかだつまらなく感じるというニュアンスもある気がする。しかし基本的には受け付けなくなる。

 化学調味料を基本的に受け付けなくなった人(仮に「ナチュラル系」と呼ぶ)とぜんぜん受け入れる人(仮に「ケミカル系」と呼ぶ)の間に、見えないのに明確な境界線が引かれる。それはナチュラル系が、ケミカル系に対して引く。

 ナチュラルがケミカルを化学調味料を使わないレストランに誘っても何も問題は発生しないだろう(強いて言えば、客単価の感覚のずれという問題は生じえる)。問題が発生するのは、ケミカルが「ここ美味いんだよ!」と言って、化学調味料をバリバリつかうレストランにナチュラルを誘ったときである。そこでナチュラルはけっこう参ってしまう。普段食べないように避けているものを、友人が「美味い!」と言って食べて、勧めることに困惑するからだ。

 

 というような境目が、けっこうある。結果、ナチュラルはナチュラルな友だちを作る(選び)、ケミカルはケミカル同士で食事に行くようになる。ま、勝手にそうればよろし、と思うし、思われるだろう。でも、これ恋愛のなかではけっこうとっても重要な知識になる。恋愛とはいつも少し自分より上の人に向けて恋心を抱きがちなものだけれど(たぶんね)、仮にあなたがそのときケミカルで、相手がナチュラルだと最初のデートなどでその境目が現れてしまうと恋愛候補者として失格になりえるからだ。仲良くなってからなら食の問題は、頑張って解決しようとするだろう。しかし冒頭でこの境目に触れてしまうと助走がないぶん、離れて行かれやすくなる。

 

 だから、こういう領域の違いがあることは知っておいたほうが良いのだ。安くて美味しいものはいっぱいある(レストランの話になると味だけではなくって違う要素も多くなるのでややこしくなるからおいておくけど)。高いのが良い!ってわけじゃない。安い居酒屋だって美味しかったり、楽しかったりするところは本当にゴマンとある。化学調味料が悪!ってわけじゃないのだけれど、例として扱いやすかっただけだが、その有無が引くラインがある。

 

 ということを知っていると何かと便利というか、ほんの少しだけ生きやすくなるんじゃないかと思う。バターしか使わない人にマーガリンを使ったサンドイッチを食べさせてもあんまり喜んでもらえないかもしれないのだ。いやマーガリンが悪いってわけじゃないんだけど。ただ、領域みたいなものがあるんです。ほんと。

 

旅はスイッチ

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 生まれて初めて沖縄に行ってきた。

 

 3泊4日。那覇から少し離れたリッツ・カールトン沖縄まで車で1時間弱。ゴルフ場に囲まれるように小山の上に位置した、俗世から切り離されたみたいなホテル。のんびりするにはぴったりなので、滞在中ほとんどホテルから出なかった。

 

 ホテルには、様々な種類の本が用意されたライブラリが、屋外プールの脇にあり、そこに漫画の『ワンピース』が、予想外に71巻まであり、最近の『ワンピース』はもう良くわからなくなっていたが、昔は面白かった印象があったから、ちょっと古いぐらいがちょうど良く、持参したあまりおもしろくない本をちょっと読んではワンピースを読んで笑い、元気がでてきたらまた、あまりおもしろくない本を頑張って読み(頑張らなくても良いのだろうけれど、どうして読み切りたい内容の本だった。その本を読んだ後に幸田文の『台所のおと』を読み始めたら、とても読みやすく感じたので、最初に読んでいた方の本はやっぱりおもしろくないのだと得心した)、疲れたら泳ぐ、ということを三日間続けた。

 

 おしゃれなホテルなので、小難しい本を読む方がかっこう良いだろうと思ったのだけれど、『ワンピース』はちょうどいいぐあいに心の隙間に差し込む魅力があり、抗えなかった。それにバカンスである。漫画を読んだって良いはずである。

 

 リッツ・カールトン沖縄には、屋外にも屋内にも1つずつプールがある。僕ら(僕と妻)の部屋からすぐ近くにある階段を降りると屋外のプールがあったので、足が向きがちだったが、「離れ」にある屋内のプール(スパとジムと併せ持つ建物の中にある)のほうが、強烈な日差しを避けられて、より快適だった。どちらも温泉並みの水温だったが、いくらでも泳いでいられるほど気持ちよかった。まだシーズンでもないらしく、宿泊客も少なく、プールはときどき我々夫婦の貸し切り状態になった。それがさらに快適だった。

 

 海は、リッツのプライベートビーチがあり、ワゴン車で送ってくれる。ビーチでは、飲み物も食べ物をオーダーできるのだけれど、メニューを見てちょっと笑っちゃったのだけれど、焼きそばがあった。海の家みたいだと思っておかしく思い、オーダーしてみたが、なかなか美味しかった。海は少しいくとすぐに足がつかなくなるほど深くなっていたが、浅いところでもいろいろな魚が泳いでいて、水中メガネを持っていけば、ダイビングするまでもなく、魚が目の前を横切る姿を綺麗に観ることができた。

 

 しかし今思えば、せっかくの日常ではない環境。『ワンピース』ではなく、もっと読んだことのない本の読破を目指しても良かったかもしれない。しかし知見を広められなかったその一方で、夏休み感は盛り上がった。旅行後に読み始めた幸田文の『台所のおと』をもし読んでいたら、ケラケラと笑うこともなかったし、まあ良かったかもしれない。

 

 ホテルからあまり出なかったとは言え、食べ放題飲み放題みたいなプランもあったが、一人12,000円だったから、二人だと24,000円で、それだとけっこう良いシャンパンも買えちゃうし、ってことを考えたら、じゃあ地元で何か安くて美味しいものを食べて、ワインショップでシャンパンやワインを買って部屋で飲んだほうが良いじゃないかと思い、そうした。ワインショップは名護市に「とうまワイン店」という店があり、食事の後、そこに寄ってみたら、店主が親切に飲みたい種類のワインを選んでくれて、それとシャンパンをひとつ買って部屋で飲んだのだけれど、シャンパンもワインも美味しくて、この計画に妻とともに大いに満足した。

 

 仕事は、仲間に任せてでてきたし、夏季休暇の宣言もしてきたのでメールは見ないようにした。できるだけ徹底して、日常から一度離れること、それが僕の旅行のささやかな狙いである。知らない土地で知見を広めたいという気持ちもある。でもそれは行くだけでけっこう叶う。空港からホテルまでのドライブのあいだにも、沖縄の方たちの運転の仕方が、ずいぶんと独特だったし、徹底してどこにいる人たちも、何かが抜けていた。悪口ではない。でもだいたい注文は聞き間違えられるか、違うものが給されることになった。高級だろうが、高級ではないところだろうが、ぜんぶ同じ程度に、何かが聞き流され、何かを忘れられた。これは欠点ではなく、傾向なんだろうな、と僕は思ったのだけれど、そういうことですら、知らない世界の体温に触れるように脳に心地よい。だから、あとはいつもの日常からすっぱり離れることに専念すれば、よろしい。

 

 きっとそれが良いことだと思っている。心配とか将来とか仕事とかぜんぶ一回消して、それはまるでコンピュータを再起動させるみたいに全部一回終了すると具合が良くなることがあることを期待するに似た、歪みをリセットすること。そういうことは大切なんだろうと直感的に思う。

 

 ラグジュアリーホテルの良いところは、それもちょっとシーズンはずれだと尚更なのだけれど、他者に煩わされることがほぼないことだ。僕らが滞在中、他の宿泊客は半分が日本人、半分は外国人だった。ヨーロッパの人たちと中国人が半々くらいだった。中国人たちは、みな礼儀正しかった。大騒ぎする人たちもいないし、失礼な人もほとんどいなかった。みな挨拶をするし、欧米人たちは笑みの交換もする。

 

 そんなふうにして、リセットしてきて思うのだけれど、日常というものは、けっこう健康的に過ごしていても歪みみたいなものが膨らんでいくのだなということだった。東京に帰ってきて働き始めた僕は、疲労がやや残っているものの、何か言葉にできない動機が芽吹きはじめている気配を感じている。それが何なのか、ただの気のせいなのかはまだわからないけれど。

 

 ほとんど江戸っ子の妻は、沖縄のホテルの夜のプールで初めて満天の星を見たらしい。北海道の然別湖だともっとすごいんだけど、いずれ見せたいものだ。

 

 オンオフを切り替えるスイッチは、面白いと思うのは、スイッチをオフにして見えるものが時々あることだ。部屋の電灯のそれだとすれば、消せば、それが夜なら部屋の中のものは闇に消え、その一方で窓の外の景色がよく見えるようになる。そこに誰かいるならば、姿が見えなくなる一方で、肌がさわり心地が浮き上がり、気配が濃くなる。だからときどきスイッチは押したほうが良い。ぱっちりと。中くらい押すと、結局何も見えなくなるかもしれないから。ハレとケみたいにすっきりと入れ替えたほうが具合が良い。

 

 

「出会いがない」という人が買う宝くじは当たらない

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 結論から書くと、「出会い」は、ちゃんとあるのに、「出会いがない」という人は、ないところでばかり探している、出会いを見つけるということはさほど難しいことではない、のに、という話である。

 

 たとえば、合コンである。今では、少なからずの若者は合コンよりアプリを使って出会うそうだ。どっちでも良い。アプリもある意味では似たようなものだ。合コンというのは、それそのものを楽しむという人もいることだろう。自己紹介から複数のなかでより良い成果を得ようとするゲーム、またはその場の交流の面白みは、ある意味政治的な駆け引きが醸している部分もあるかもしれないが、人を魅了することもあるだろう。そういう知略遊びが好きな人を除いて、あわよくば素敵な出会いがあれば良いのに、と願って参加する人に向けて言うのだけれど、合コンというのは、基本的に「誰がいるかわからない場に赴いて、その中で比較的良い人を見つけるという効率の悪い企画に、貴重な時間を使ってしまうやや残念は人たちしかこない場所」である。Cクラスから比較的Bクラスに近い人を探すようなものである。母数からすでに選べないわけだから、ずいぶんとひどい過酷な環境に身をおくようなものだ。就職活動で言えば、どの企業がそこにあるかわからずに、3、4社しかこない説明会に赴いて、そこで就職先を探すようなものである。しないでしょ? 世間知らずの学生ですらそんなこと。人員を募集している企業をいろいろな方法で探して説明会などに赴いたりして、応募するでしょ、たぶん(僕は就職活動をしたことがほとんどないので推測で言ってる部分が多いけど)。

 

 付き合うかもしれない相手とかセックスするかもしれない相手は、最初から選ぶべきだろう。合コンなんて(合コンで素敵な出会いがあった人に対しての悪意はない。そういう方は、運が良く、運を引き寄せるほど日頃の行いが良いかすごくポジティブなのだ。ポジティブだからどんな相手でも満足する、というわけではなく、ポジティブな人間は、運を引き寄せる力を持っている、のだそうだ。中野信子さんの著書に書かれていた。気がする。)、あまりものから比較的まともな人を見つけるようなものである。

 

 そんなことはない、合コンにはかわいい子だってイケメンだってくることはある!と反論する方もいるかもしれない。(話の途中だけれど、僕も合コンには行ったことがある。3回くらい。だから自分を棚に上げているつもりはない。)でも、モテてる人(魅力がちゃんとある人)が、合コンなんて非効率な場に来るだろうか。頼まれて行くとか、世見を知らないから来ちゃうとか例外は探せばそこそこ見つかるだろうが、モテているなら、そんな場に行かずに、素敵な人を直接見つけて、その相手と仲良くなることだろう。だから本質的には、モテる人は合コンには行かない。

 

 

 ハイスペックな男性が来る合コンなんてもときどき耳にする。医者や弁護士などの高収入(アナリストのほうがずっと高収入のことも多いけど)の男性ばかり参加する合コンである。しかし、考えてみて欲しいのだけれど、医者や弁護士でもなんでもいいけど、知性も高くて高収入なのに、付き合う異性ひとりちゃんと自分で見つけられない人ばかり来るわけである。高いハズレくじばかりのくじ引きみたいなものじゃないだろうか。あわよくば結婚なんて考えての参加だとすれば、もっと悲劇的な将来が待っている。金もあるのに、女の人を口説く知力も度胸もない男が、よりよい家庭を築けるのだろうか。かもしれないけど、可能性は低めじゃないだろうか。(また話ちょっととぶけど、『アラサーちゃん』の最新巻に書かれていたけれど、「高学歴高収入の相手を見つけるには、自分が高学歴高収入になるべき!」と。そのとおりだと思う。)

 

 

 じゃあ出会いはどこにあるのか、というと、ラピュタみたいにちょっと度胸を出したその先にあるようなイメージなのだけれど、「一人で行動すること」の先にある。同性同士で飲みに行ったり、遊びに行く人に出会いなんかない。一人で飲みに行ったり、遊びに行く人が出会いに囲まれるアドバンテージを得る。

 「一人で居るなんて寂しそうと思われそうでむしろマイナスイメージを抱かれかねない」なんて反論もあるだろう。そしてそうかもしれないけれど、むしろそのほうが話掛けられやすい。じゃあそこで話かけられて恋愛に!?って、そういう安直な話でもない。その前に、一人で「どこへ」出かけるのか、という話をしたい。

 

 山や川や公園に行っても、気持ちの良い挨拶をする人たちと気持ちの良い挨拶を交わすだけであることが多い。いや、それはそれでなかなか良さそうだ。しかしここでいう「出会い」は、何も気持ちの良い友人との、ということではなくロマンスの道先案内人との出会いである。アムウェイとかある種のサークルでも出会いはあるけど、そんなところで出会う人に僕はなんとなくあまり良いイメージがもてない。アムウェイバッシングをしたいわけでは(少なくともこの場では)ない。ある種の明確な目的を持った集まりがかもしだす歪んだ一体感が、ここで述べてきている出会いには不適切だからである。そこには「健全な多様性」がやや損なわれている。では、どこに健全な多様性があるのか、というと良質な飲食店である。

 

 良質な飲食店。その定義はこうである。「美味しい」、「人の悪口、噂話、誰かが来たとかそういう情報などを話さない」、「食べログで点数があまり高くない(偏見もあるかもしれないけれど、良い店には、食べログを見てくる人を敬遠したくなるお客さんたちが集まることが多い気がする)」、「店の人もお客さんもみなちゃんと挨拶やお礼をする」。そういう店は、類友効果で店の人も良いが、お客さんたちが良いひとたちばかりである。彼ら・彼女たちは、貴重なその店を自分の憩いの場としてまもるために、良質な友人しか連れて行かない。結果、その店は、民度の高いより良い人たちばかりが来るような場になる。そういう店は、一人で食事をしても飲んでも許される気配がある。そういうところに頻繁に通うのである。誰も話しかけてこないし、出会いもない。慣れるまでのあいだ、所在もないし、気まずいし、やや恥ずかしい。でも通う。またそういう店を見つけるまでのあいだも、ひとりで「良い店探し」行脚をしなくてならない。でも愉しめば(『孤独のグルメ』ごっこくらいに考えて)、それほどつらいことでもなくなる。なかなか楽しいくらいである。そんなことを数回もやっていれば、店の人も、あなたはすごく臭いとか不遜でもない限り、親近感を抱いてくれて親しみを込めた挨拶をしてくれたり、ちょっと話しかけてくれたりするようになる。または「良く来てますね」なんて誰かがちょっと話かけてくることもある。さくっと食べるか飲んで帰るなんて具合であればそれほどお金もかからないだろう。合コンに行くのと同じようなコストじゃないだろうか。誰かと少しでも仲良くなるとその店を好んでくる人たちと少しずつ話をするようになる。そこで出会いがある!ということでもない。良質な店で感じの良いひとたちとの新たなる世界が広がり始める、ということである。そんな人たちと会う機会が増えてくると、その中に素敵な人がいることはとっても多い。それが一番良い出会いである。少なくともモテない人たちだけで集まる合コンよりずっと良い出会いがそこにある。そういう相手を見つけたら、頑張って仲良くなるか、自然の波長で仲良くなるかすれば良い。

 

 さて「素敵な人にはすでに恋人がいるじゃないか」と言われるかもしれないが、いるに決まっている。ちょうど別れたばっかりなんですよ、というのは都合の良い妄想とかドラマとかでしかない。じゃあ略奪せよと言っているのかと問われれば、半分イエスで半分ノーである。その目当ての素敵そうな人にたとえパートナーがいようが別れるかもしれないし、あなたと出会ったことで相手と別れたくなるかもしれない。計略をめぐらせて別れさせるわけじゃない。という意味で略奪ではないと半分くらい言える。そういうことをするとアメリカ人が復讐劇を好んで観る根底にあるような、「奪ったものは、いつか奪われる」という疑念に取り憑かれ続けることになるし、取り憑かれ続けているとけっこうそれが現実にもなる。できるだけ誰かの不幸など望まないでいたほうが良い。

 しかしそもそも新しく開く世界には、質の高い人たちばかりがいるのである。彼らとプライベートで遊んでいれば、たとえその店には来ない人の中にも素敵な人がいて、あなたもまた素敵な人であれば、紹介したくもなるから、どんどん良い出会いに会う。

 

 店、に限らないかもしれないが、より良い人(定義は先にあげた良質な店の定義とだいたい同じ)が集まる場所に一人で行くこと、少し通うこと。そして自分自身が自分の人生をちゃんと楽しもうとすること。なぜなら自分の人生を楽しもうとしていない人は、その人がつまらないから。自分が面白くて品性がないと良質な人とも仲良くなれない。それから自分のことを何よりも大事にすること。これについては『ロスチャイルド家の上流マナーブック―ナディーヌ夫人が教える幸せの秘訣』という本に詳しく書かれている。この3つで、出会いは困らない、と思う。

 

そういえば、自分のことをちゃんと大事にしないと、いっぱいある自分の魅力にも気づかないから、ほんとは魅力的なのに、素敵なパートナーと出会えない、なんてことが良くある。綺麗なのに、知性が高いのに、面白いのに、能力が高いのに、出会いがない、恋人がいない、という人は自分のことをまずちゃんと大事に思ったほうが良い。ほんとうに。

 最後にタイトルにある宝くじの例えについて。宝くじは、貧乏人が払う税金である、と言われる。宝くじに毎年1万使うなら、それをちょっと貯めて投資に使ったほうが良い。確率について数時間調べれば、その辺は納得できると思う。合コンに行くモテる人がいないように、宝くじを買う金持ちもいないから。

 

 

おっぱいは良い

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 最初に結論を言うと、男が女に礼儀正しければ、世界はより良くなるはずだ、ということになる。それがこの話の主旨だ。

 

 季節は、初夏と真夏の狭間、梅雨。といいつつもあまり雨は降らないで、むしろ湿気の少ない過ごしやすい夏のような、今。東京では、巷でみかける女性のほとんどは、胸のかたちの分かる格好をしてらっしゃる。程度の差こそあれ。映画『アイアンマン』では、複数の敵に同時にロックオンしてミサイルを放つ機能が描かれているが、あの機能が僕の焦点にも備わっていれば良いのに、と思うほど視界には複数のかたちの分かるおっぱいがいっぱいである。

 歳を取って、モテたい、好かれたいという気持ちが減じたせいもあろうが(結婚しているので、そろそろ減じないなら減じないで問題である)、おっぱいを見ていると思われたくないという羞恥による自制機能がやや低下しており、目でではなく、頭ごと動かしてみてしまっている。イタリア人なら、女性全体に向けて、あからさまな視界を向けるだろう。それはそれで男として立派に思う。しかしおっぱいばかり見てしまうというのは、少々、いや大いに人格や品性を貶めていることだろう。しかし、その魅力はとても強力である。宇宙的な力学が裏側で作用しているのではないか、いやきっとそうに違いないと思うほどに強力である。もしかしたら太陽風の影響もあるかもしれない。今年はことさらに強いというニュースが流れていたかもしれない。

 

 さて、これは僕個人の問題なのだろうか。世間では、僕の中に流れる「求む、おっぱい」という熱量は、これほどまでに高くないのだろうか。いや、そんなことはないはずである。世見のオッパイ熱は、(それも僕のように季節的な増減などなく、それは通年)高いはずだ。僕は、ついついすれ違うおっぱい群に目を奪われるが、おっぱいのかたちをしたマウスパッドを欲しいと思ったこともないし、「おっぱい」で動画や画像を検索することもない。そう考えると、僕のおっぱい熱などむしろモデレイトでハンブルな、慎ましいものではないだろうか。

 

 加えて、そこに行動を伴った欲求もさほどない。すれ違う女性たちのおっぱいを触りたい(っちゃ、触りたいけど)と強く思うわけでもない。ただただ良く見たい。そして「良いねー」と思いたい。それはまるで花や鳥を好きな人たちが、それらを見ることで強く満足する様に近いものだ。しかし、よしんば触れるとしたら触りたい浅ましさは否定できない。先日、うちに遊びに来た友人夫婦の奥さんは、自他共認める豊満なお胸をお持ちで、立派ですなと感想を漏らしたところ、「触っても良いよ」という予想外の発言を得た。しかし未熟な僕は、旦那さんの目の前で奥さんの胸を触る、という蛮行についぞ至れなかった。世界を変えるのようなイノベーターだったら、触れたのではないだろうか。スティーブ・ジョブズマーク・ザッカーバーグだったら、触ったことだろう。自分の凡人っぷりが恨めしい。

 いらぬエピソードを挟んだが、要は「そこにある多様なおっぱいを認める」ことを所望している、ということである。その動機は、と問われれば心高まるからである。

 

  

 さて、こうまでも心高めてくれる、おっぱいという存在とはいったい何なのだろうか、ということについて考察を深めるのは至極自然なことである。考えた末に、出した結論は、「世の中をより良くする小さな神様みたいな存在かもしれない」と言うものだった。何故か。

 ひとつ例を挙げてみたい。あなたは男性で、朝プラットフォームにいて、これから電車に乗ろうとしている。混雑した時間帯である。ひとりの若い男性がすれ違いざまに肩を食い込むくらいの勢いでぶつけてきた。小さなうめき声が出てしまうほどの痛みがあった。そのときに耳に聞こえてきたのは、その若者の舌打ちであった。これから忙しい一日が始まろうとしている矢先に不条理で腹立たしい舌打ちである。あなたが血気盛んな人であれば、その若者を捕まえて、文句の一つや二つ口にするかもしれない。しかしちょうど電車がホームに滑り込んできて、あなたはそれに乗らなくてはならない。行き場のない苛立ちを抱えながら、満員電車の中に身を押し込む。自分の後からもいっぱいいろんな人が流れ込んできて押しつぶされそうになる。気がつくと目の前には女性がいて、鞄を抱えるあなたの手にその女性の胸が触れたとする。手を引っ込めたいが、それもままならぬ。あなたは女性に向かって小声で「すみません」とおいうかもしれないし、言えば逆に気まずいかもしれないと思い黙っているかもしれない。しかし女性の方から逆に「すみません」と声を掛けられたとしてよう。掛けられなくても良い。女性の胸が手に触れていた時間はほんの僅かだったとして、あなたは先程、あなたの一日を台無しにするかもしれない苛立ちを湧かせた若者の舌打ちのことについてまだ考えているだろうか。これが僕だったら「今日はいい日だなぁ!」と思ってやまないだろう。

 接触などせずともである。苛立ちを抱えながら、電車に上手く座れとしてよう。向かいには女性が立っていて、けっこう胸のかたちの分かる格好をしていたとしよう。または屈めば見えそうなほど襟周りのひろい服を着ていたとしてよう。彼女からは、魅力的な香水の匂いがかすかに漂ってきたとしよう。それでもまだあなたはイライラしているだろうか。僕ならやっぱり「おっぱいっていいなぁ」ということに思考のキャパシティの大半を奪われていることだろう。舌打ちをした若者のことなど、重力から開放されたスペースデブリくらい遠のき続けて、すでに僕ワールドにおける光の届く範囲の外に抜けて出てしまっている。

 

 さて、このたとえのなかで舌打ちをされる側の人間が、感じるような不条理な苛立ちというものは世界に無数にあることだろう。そしてそれは負のスパイラルを生み得る。同僚に悪態つくかもしれないし、部下の失敗に思いの外、強い感情を込めて叱責してしまうかもしれない。帰宅してから、伴侶に冷たい態度を取ってしまうかもしれない。発展すれば、誰かと喧嘩したり、はたまた見しらぬ誰かに舌打ちをすることだって有り得る。社会事件の多くは、些細な負のスパイラルが遠心力を得て、起きてしまうものではないか、と僕は考えている。

 

 であればである。世界に魅力的なおっぱいが溢れていればいるほど、不条理な苛立ちが世の中から消えていくのではないだろうか。何もかもうまくいないな日々が続いているときに、道の向こうから来た女性が何か落としてかがんだときに、ブラジャーやらおっぱいが見えたとしたら、やさぐれていた気持ちが減っていないだろうか。「何もかもうまく行かない人間に、神様はおっぱいをちら見させるだろうか?」と自問しないだろうか。そして「否!」と答えやしないだろうか。これからいいことがあるかもしれない!と思うかもしれない。そんなわけでイスラム教圏内では、そういうわけにもいかないだろうが、世見にすてきなおっぱいが溢れていればいるほど、世界はよりよくなるのではないか、と希望のように強く思うわけである。

 

 しかしここでひとつ問題がある。世見の女性が、おっぱいのかたちのよく分かるきわどい格好をすればするほど、性犯罪やセクシャルハラスメントが横行するのではないだろうか、と。(それこそがイスラム教が女性に露出させない根拠でもあるが。)礼節を欠く程度の露出が、その場にあるべきふさわしい気配を壊しかねいないという問題もあるだろうが、それは節度の問題として棚上げする。今は、おっぱいの存在を享受できるような格好が、女性たちの身を危険に晒す契機にもなりうる懸念についての話に終始したい。その通りだろう。逆にである、逆に、にも関わらず男たちは、女性がどんなにきわどい格好をしていても、女性たちを大切に扱うなら、この問題はなくなる。一人残らず、どの男も礼儀正しくしなくてはならない。またもし誰か女性への礼儀に欠けることがあれば、男性が率先してそれをたしなめれば良い。女性が安心して暮らせる世界を男たちが必死で作れば良いのである。そうすれば、世界は素敵なおっぱいで溢れるはずだ。否、本当は、本質的はおっぱいではない。おっぱいは象徴であり、村上春樹さんぽく言えば、ある種のメタファーである。(「僕は、おっぱいを実存として求めているのではなく、メタファーとして希求している、ということになると思う。母性性というよりは、エンティティの欠如を補完する異性を求める、そのダイナミズムの対象としておっぱいを求めているんだと思う」みたいな。)おっぱいは、女性である。小さくても、無くても構わない。わかりやすくするためにおっぱいに集約している。だから結論はこうなる。

 

 男が女に礼儀正しければ、世界はより良くなるはずだ、と。

 

 

 にしても、おっぱいって良いよね。そういうセラピーとかあってもいいじゃないかな。でも、色んな人に怒られるか。田嶋陽子さんとか。でも田嶋陽子さんのおっぱいを触るって、なかなかラディカルな行為かもしれない。そんなことできたら僥倖だろう。

C1: シャンパンに詳しくなると得をすること

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  1. エグゼクティブと話やすくなる
  2. グランメゾンに緊張しなくなる
  3. 世界が広がり、深くなる
  4. ロマンスが生まれる
  5. 人生を慈しめる

 

1.エグゼクティブと話しやすくなる

 社会的地位が上がってくると会話に上がってくるテーマがある。筋肉とワインである。ゴルフの話がいまだに多いけれど、日本に限った話で、アメリカでは日本ほど一般的ではない。何もアメリカまで圏内に入れなくても良いだろうから、ゴルフはまだまだ大切な共通項として機能していくことだろうけれど、筋肉の話は、国内外けっこう共通した関心の対象である。いぶかしまれるかもしれないけれど、昨今スタイルを良く保つということはエグゼクティブ周りでは重要な資質と見られている。運動が脳、集中力、ストレス耐性に大変役立つこともあり、運動はさらに好まれるようになっている。よって、現代では経営者たちはでっぷりと貫禄ある体型であることは少ない。忙しい最中、経営者たちはいつ運動しているのかというと朝である。都内の高級ホテルのジムやプールには朝五時、六時から走ったり、泳いだりしているエグゼクティブがいっぱいいる。どこのラグジュアリーホテルもたいていジムが充実しているのもそんなニーズを背景にしている。そんなわけで、「困ったら筋肉の話をすれば良い」とどこかに書かれていたのだけれど、その通りで、食事やトレーニングの話は話題が尽きない。

 

 そしてワインである。収入が増えていく人はもれなく忙しい(不労所得はまた別だけれど、それはおいておいて)が、必ずしなくてはいけないことがある。それは睡眠と食事である。睡眠はひとりで行うことだけれど、食事は他者と分かち合える。よって日に数度しか取れない貴重な食事をビジネスや交流の場として利用しない手はない。そこで潤滑油になるのがワインである。ワインに詳しいと社会的に地位が大きく異なっていても、共通の話題で親しくなり得る。

 が、しかし、ワインの世界は広大である。産地は世界中であり、その分、ブドウの品種も無数といっても良いほどある。どこから手をつけて良いかわからないし、いつになったら詳しくなれるのか見当もつかない。

 

 しかしシャンパンはフランスの一地域でしか作られないワインである。さすがに頑張ればそこそこ覚えられる。ブドウの品種は基本的には三種類しかない。その割に、シャンパンが利用される場はとても多い。祝いの場もそうだけれど、食前酒としてリストに必ず載っている。詳しくなってくるとシャンパンのワインリストを見れば、そのレストランの主旨や主義が見えてくる(原価よりどれくらい高いかもわかってくるし、選ぶシャンパンで先進的かオーセンティックか、メーカー寄りか、派手好きか、料理との相性をよく考えているのか等など)。

 それくらい分かってくるとワインに詳しいエグゼクティブたちと会話することにも、それほど困らなくなる。少なくとも、「シャンパンのことなら少し知っている」というは悪くない武器となる。ソムリエでもシャンパンにとても詳しいわけではない方も少なくない。ソムリエのテストにはシャンパンについての問題は1問あるかないかなのである。あなたがシャンパンを多くので少しずつ詳しくなっていくとその辺のソムリエよりシャンパンに関しては多くの知識を獲得できるかもしれない。そんなわけで、シャンパンに詳しいということは、自分より高い地位の人々との会話でとても有効なアドバンテージとなる。

 

 

2.グランメゾンに緊張しなくなる

 グランメゾンに限らないが、普段高級ホテルのレストランなどに行き慣れているかと問われて、イエスと答える人は多くないはずである。そういう方々に向けて書いてるつもりもない。私自身、毎週行っているわけでない。それどころか月に一度くらいちょっと贅沢してみるか、くらいの程度である。

 古くからあるグランメゾンなどは、正直けっこう怖い。壁には高価そうな絵画は飾られているわ、スタッフはみんな怖そうだわ、他の客はドラマで観るような政治家とか財界の偉そうな人々と綺麗なドレスを着た女性たちである。どうも緊張してしまう。しかしシャンパンに詳しいと、ワインリストを開くとそこには同級生のように見知った名前が並んでいることになる。そして先にも書いたが、どんなシャンパンを用意しているかで、そのメゾンがどんな考えなのか見えてくるし、いくらくらいの「粗利」を取っているのかもわかる。そうして緊張もとけてくるし、食事のオーダーもしやすくなる。加えて、たとえばボランジェを頼もうものならば、ソムリエは注ぐときに「これは007でジェームズ・ボンドが好んで飲まれてるシャンパンなんですよ」とウンチクを語ってくれることすらある。あなたがシャンパンに詳しいと、一番最初の007『ドクター・ノオ』では、ドンペリだったし、次作では、テタンジェのコント・ド・シャンパーニュだということも知っているようになる。そんなウンチクでやり返すことは無粋だが、「そうなんですか」と関心した素振りを見せているあいだにずいぶんとリラックスできるようになるはずである。そんなふうに、シャンパンに詳しくなれば、背伸びして行く素敵なレストランを楽しめるキッカケを得やすくなる。

 

 

3.世界が広がり、深くなる

 映画にもシャンパンはよく出てくる。レオナルド・ディカプリオ主演の“The Great Gatsby”には、映画のオフィシャルシャンパンとしてモエ・エ・シャンドンが出てくる。先の007には3つのメゾンのシャンパンが出てくる(ドン・ペリニヨン、テタンジェそしてボランジェ)。「君の瞳に乾杯」という翻訳で有名な『カサブランカ』にはGH・マムが出て来る。このマムは、2015年までF1のシャンパンファイトに使用されていたので、知らずとも目にしている人は多くいるはずだ。アメリカのドラマ『ホームランド』には、ビルカール・サルモンが出てくる。字幕には「高級シャンパン」となっているが、英語のセリフでは「ビルカール・サルモンだぞ」と言っている。と、このようにシャンパンに詳しくなると、いろんなエピソードも楽しめるし、またフィクションを観ていても、作家の趣向や時代背景なども伺えて、存外楽しい。ファッションと同じように何を好んで飲むんでいるかで、その人の傾向も伺えることもある。加えて、ウンチクを(このブログのように)率先して語るか、それとも控えめにして、それでいて造詣が深いか、など性格も見えてくることもある。斯様にして、シャンパンに詳しいというだけで、世界は思いの外、広く深くなる。それもまたシャンパンの良いところだ。

 

 

4.ロマンスが生まれる

 さもありなん、と言わんばかりのありふれた話に聞こえるだろうが、実際のところシャンパンに詳しいことからロマンスは生まれると断言できる。もちろんマナーや異性に対しての配慮といって「前提」もあるが、それでも次に挙げるシャンパンの良き面も手伝って、ロマンスは生まれやすくなる。

 たとえば、シャンパンは、温度やグラスに気を遣うだけで、高級なものを自宅で、自分で楽しむことができる。当たり前に聞こえるが、スティルワイン(泡のない普通のワイン)においては、そうはいかなくなってくる。良いワインになればなるほど扱いが難しくなる。開けてからしばらくおいておく必要があったり、デキャンタといって他の容器に一度あける必要がでてきたりする。所謂グランヴァンと呼ばれる超高級ワインになると、ソムリエに任せないと美味しく飲めないことすらある。その点、シャンパンならさほど専門的な知識や技量を要しない。ちょっと良いグラスを綺麗に磨いて、変な匂いがないかチェックして、ワインクーラーに氷をたっぷりいれて、冷えたシャンパンを綺麗に注げば良い。だから自宅でも楽しめるのだ。シャンパンをあけるのが自宅でも良いならば、1.5倍とか2倍の値段になるレストランより自宅のほうが良くなる。自宅で良いシャンパンを開けるなら、素敵な誰かを呼びたくなる。なぜならシャンパンは、儚いワイン。朝までには飲み干したい酒である。一人で1本あけるというのも味気ない。安くもないから、楽しく誰かと飲みたくなるのが当然である。誰かを呼ぶなら、部屋を綺麗にしたくなる。部屋を綺麗にしたら、自分だって綺麗にしたくなって洗いたての服を着たくなるし、身体も清潔にしたくなる。そしてシャンパンを美しく飲もうとするとキャンドルが必要になる。キャンドルを背景にするとシャンパンの泡がとても美しく見えるからだ。こうしてなんだかんだ言って、シャンパンに詳しくなればなるほど、素敵な誰と共有したいという要求が強化される。そうして小さかったり、大きかったりするだろうが、ロマンスは泡のように生まれることになる。そしてときどきその泡はいつまでも消えないこともある。

 

 

  1. 人生を慈しめる

高価なものを身の回りに置くというのは良いことである。それもできるだけ、儚いものであることが望ましい。食器とかワインとか。シャンパンは高価と言っても、ちょっと頑張るだけで買えるワインである。しかし一度買うと誰かと飲みたくなる。誰かと飲むならば、その人は大切な人が望ましくなる。大切な人と飲むならとちょっと良いグラスが欲しくなる。良いグラスを買うとそれを大切に扱うようになる。綺麗に洗い(ワイングラス用のスポンジがある)、綺麗に拭き(グラスを拭くためのナプキンがある)、大切に保管するようになる。そういうことをしていると、割れても良い安価なものばかり扱っていたときには気づかない「何か」が自分の中に芽生え始めてくる。それは「どうでも良いというものは、あまりないのではないか。身の回りにあるものは大切なものなのではないか」という示唆である。

 またシャンパンの朝は、良いものでも夜開ければ、翌朝の10時くらいには泡がなくなる。それまでの刹那の時間を誰かと大事に過ごしたくなる。時間の大切さを少しずつ学ぶことが出来るようになる。居酒屋だったら三回くらい行けそうなシャンパンを開けるにはちょっとした覚悟がいる。覚悟から私たちは、何かを得ること失うことを実体験を通して徹底して学ぶことになる。何よりもシャンパンの泡が、私たちの人生の有限性を示唆してくれる。シャンパンに詳しくなれば、シャンパンを大切に、それでいて頻繁に開けるようになるが、そうすると日々、時間を、人を、金を大切にすることを身につけることになる。

 

 

そんなわけで、私はこの得すること尽くめのシャンパンについて少しずつここで紹介し続けていこうと思う。

 

 

 

 

最高級ホテルから学ぶこと

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 良質なホテルをなんと呼べばいいのか迷って、これぞそれ!という表現が見つからず、そう言えばむしろ中級に見えそうな「高級」という言葉を使った。という枕をおいてから語るけれど、最高級と呼ばれるホテルは、お金もかかるけれど、学ぶことの多い場所でもあるので、僕はできるだけ訪れるようにしている。

 

 東京には、いくつものの高級なホテルがある。映画『ロスト・イン・トランスレーション』の舞台であるパークハイアット。比較的新しいアマン。客室から見える東京湾が美しいコンラッド東京。朝食が楽しいパレスホテル。プールの美しいグランドハイアット。などなど。10前後の「高級ホテル」がある。あなたが多忙なら、1泊で旅行をしたようなリフレッシュができる場所として最適な場所とも言える。僕自身、多忙かどうかはさておき、犬猫を飼っているため、長い旅行が難しいので、都内のホテルに旅行気分で宿泊することが多い。多いとは言え、行き慣れているわけでもなく、行く度に学ばされることが多々ある。そうやって学んできたことについてまとめてみたい。

 

  1. 服装

 宿泊するぶんには、本質的にはどんな格好だって良いのだろうけれど、泊まる側として快適なのは、その場にふさわしい格好でいることである。

 いきなり話が少し飛ぶのだけれど、僕はマンダリンオリエンタルに宿泊したときに、エレベーターの中で、よれよれのAC/DCのTシャツを来た白人の男性にはちゃんと挨拶をされた。そして、連れの女性に対して“After you”と言って、僕も含めて先に降りることを譲ってくれた。その一方で、フォーマルな洋服を身にまとった日本人宿泊客たちからは、ほとんど挨拶をされたり、エレベーターなどの場で彼らが良いマナーをする姿をみることはなかった。だから、本質的には格好より中身である民度の高さのほうが重要ではあると思う。

 が、それは接してみないとわからないから、民度を発する側に我が身をおけば、不慣れが故に、誰をも不快にせず、しっくりとその場に溶け込みたいので、ふさわしい見た目を得たいと思うのである。

 スーツをきっちりと着るべし、ということではないし、高価なブランドでなくてはならないというわけでもないだろう。しかし、ホテルの受付の人、他の客から観て、残念な目で観られたくないという気持ちは矮小かもしれないが、やはりそんな不安などないほうが、こちらとしても快適である。

 その具合やかげんを知るには、ホテルに行って、そこで見かける人たちを観察するのが一番はやい。いろんな国々の人たちがいるから、バランスも取りやすい。結果、私見だが、急にGDPが上がったような国の人々のマナーは、良くないことが多い。ホテル文化に馴染みのある歴史の長い国の人々のマナーは良いことが多い。それはそのまま見た目にも反映される。アメリカだけ例外で見た目はすごくラフなのにマナーが良いことが少なくない。

 すべからくフォーマルにすべきというわけでもない。なんというか雑な言葉を使うと「バランス」が大事といえるのではないだろうか。上手いこと、マニュアルみたいな話にまとめられるわけでもなく、国内外含めてできるだけ多くの「高級ホテル」に泊まっていると、だんだんと「こういう具合かな」という感覚がつかめてくる。するともうひとつ大切な要素が全面にでてくる。それは「慣れ」というか「自信」である。それは、周りに思いの外伝播する。勘違いをしていないのであれば、まわりの人々は、この人はこういう場に属している(人を困惑させるようなことはしない)人なんだなと認識される。こういうことをホテルでは学ぶことができる。

 

 

  1. 態度

 見た目と同じくらいに大事なのこと。ホテルのレストランで給仕してくれるスタッフにちゃんとお礼を都度言うこと。大きな声で「すいませーん」と呼んだりしないこと。声量を調節すること。テーブルマナーをちゃんとすること。服装もレストランではちゃんとすること(ランチはある程度ラフでも良いけれど、ディナーはちゃんとしないといけない)。なぜなら、レストランの方々は、「ここはちゃんとしたレストランです」とお客に思って欲しい。なのに、Tシャツに短パンで来られては、それを見た他のお客たちに、自分がビアガーデンとか居酒屋に来たみたいな気持ちにさせてしまう。態度も然り。なので、ちゃんとしていて欲しい。そしてちゃんとしていると「ちゃんとしてくれてありがたい」という態度を受ける。何人かでホテルのレストランに行くと、スタッフの方は、オーダーの最後に複数のなかで一番ちゃんとしている人を見つめて、「これでよろしいですか?」という伺いの視線を注ぐ。会計もその人のところに置く。彼らは席順からもそれを判断する。なので座る前に席順も考えて置く必要もある。

 ホテルは、他所よりお金がかかるが、金が物を言うとしても能弁ではなく、場所としてはマナーが重視される。たとえスイートルームを借りる常連であっても、バーで騒いだりすればたしなめられる。なぜなら、ホテルは一人の客のために多数を不快にさせるわけにはいかないから。居酒屋だって同じなのだけれど、快適に過ごすために、高い金を払っているというのもある。

 高所得者になればなるほど、マナーを熟知しているかといえば、その可能性は高くなるが、マナーの悪い金持ちもいる。高級なホテルであれば、ホテル側の配慮によって、素行の悪い他の客によって不快になる機会はとても少なくなる。それは逆に、あなたも素行によってはたしなめられるということである。

 ホテルの人も、他のお客に対しても、礼儀や敬意を忘れないでいることが大事ということになる。ホテルでは、そういうことを実地で学ぶことができる。

 

 

  3.自分という人間が大切な存在であること

 ロスチャイルド家のナディーヌ・ロスチャイルドの著書の冒頭にこう断りがあります。「あなたが第一に心を配るべき人は誰か? 父? 母? 伴侶? 子供? おわかりでしょうか? 答えは、あなた自身です」。この自分を大切にするという意識に、我々日本人は、思うにいくぶん不慣れである。しかし、自分を軽視することからはそれほど美しいものは生まれ得ない。「慎ましい」ということと「卑屈」というは意味がもちろんことなるのだけれど、自己軽視というのは、卑屈に近い。先のナディーヌ嬢は、続けて、自宅で自分のために使うティーカップこそ最良の物を使うべきだと記している。自分という存在に敬意を払うことから生まれるのは、人の心を軽んじないほうが良いという実感だろう。どうしたら、自分は快適に過ごせるだろうか、こう考え始めるとうちの中は整理整頓したくなるのではないだろうか。ちゃんと眠るようになるのではないだろうか。美味しいご飯を作って食べたくなる。それも素敵な食器で。ベッドのシーツは清潔にしたくなる。花を飾りたくなる。こういうことを考え、実践するようになると、果たして他者がどうしたら快適に過ごせるだろうかと心を砕きやすくなる。

 良いホテルに行くと、ホテリエたちは、目が合うとにっこりを微笑みを浮かべて、挨拶をしてくれる。頼めば、氷をいっぱい湛えたワインクーラーと綺麗に磨かれたワイングラスを持ってきてくれる。持参したワインが上手く開けられないときには、ソムリエがやってきて頑張って開けてくれる。レストランでは、注文したいなと思って周りを見回すだけで、レストランのスタッフはあなたの視線に気づいて、そっと近づいて来てくれる(だから「すみませーん!」と声をあげられると彼らを傷つけることになる)。ベッドは綺麗にメイクされていて、ベッドサイドにはペットボトルの水が置かれていたり、他にも「喜ばせたい」という思いがいろいろと形になって現れていることがある。

 そういう経験を滞在中し続けることで、人は自分という人間をあらためて、大切に思うようになる。周りから大切にされる実感が、それを容易にしてくれる。高い宿泊費なのだから、至れり尽くせりは当たり前だと思うだろうか。もしそう思うのだとしたら、日頃からその人は自分を大切にするということを実践していないのだろう。先に挙げたような自分の快適さを通して見つける、他者の快適さの追求というものが尊いということを知らないのだ。

 こんなふうにして最高級のホテルで食事をしたり、宿泊したりすることからは、自分を大切することを心地よく学ぶことができる。

 

 4.ドラマ以上のロマンス

 ホテルは口説く場所としては、私見だが、やや恩着せがましい場所に思う。もし誰かを口説くなら、普段自分が良く行く店で(とは言え、ファミリーレストランとかじゃないところ。だって持て成す積りなのだろうから)、身の回りにある素敵だと思う店や食事を紹介するところから始められたい、と考える。ホテルに住んでいるならともかく頑張って行くのであれば、それは「釣った」あとにすべきだ。

 というわけで、最高級ホテルに行くならば、伴侶や恋人と行くに限る。窓からの景色が良いかはわからないが、少なくとも部屋の作りはとてもロマンティックなはずである。天井にはスポットの照明しかない。あとはベッドサイドランプや淡いルームライト、間接照明である。夜はほの暗いほうが人は快適に過ごせるからだけれど、それ以上に高級なホテルというのは、ロマンスを提供する気満々だからである。部屋からバスルームが見える作りのホテルは多い。コンラッド東京では数年前にカップル用に赤いランジェリーをバラの花弁とともにベッドにディスプレイしてプレゼントするという企画もあった。

 ホテルの酔うような雰囲気を利用して、パートナーを素敵な存在として扱う楽しさといったら、クリシェ満載のドラマから得るロマンスの虚構ではないリアルなロマンスを通して、ドラマや映画以上になる。なぜなら、触れることができて、話すことができて、抱くこともできるからである。

 アメニティは、素敵な匂いがするものだし、シーツからはやすっぽい洗剤の匂いはしない(無臭)。

 不思議と音楽を快適に楽しむ用意は、高級ホテルとてないことが多い。グランドハイアット東京はベッドサイドにもスマートフォンを接続できるスピーカーもあるし、テレビのスピーカーも良質なものだった。しかしそんな用意がないところが多いので、ポータブルの良いスピーカーを持参することを個人的にはお勧めする。それからちょっと良いアロマキャンドルもお勧めしたい。

 聞きたい音楽を小さくかけて、良い匂いが部屋に漂い、部屋に続くバスルームでお風呂に入ったり、シャワーを浴びたり、景色が良ければ夜景や夜明けをみたり。それはもう日頃汗まみれで働く二人だからこそ、楽しく過ごせるはずである。愛人とホテルに行く前に、先に、そしてその何倍もまず伴侶と時を過ごすべきに思う。

 

 

 蛇足をつけた気もするが、以上のような理由で学ぶこと多きサンクチュアリである最高級ホテルを強くお勧めする。パークハイアット東京でも安ければ5万以下で宿泊できる。小さな旅行と考えれば、そして学ぶことが多いのだから、ときどき泊まってみることはとても有益なはずだ。それもできれば、何でも無い日に泊まるのがより良い。記念日やクリスマスなども良いけれど、何でもない日にこそホテルに宿泊されたい。何でもない日々こそ大切な人生を形成する最大の構成要素なのだから。