シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

デートのススメ

 

 

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 ふと思ったのだけれど、デートというのは付き合う前や付き合いたてのカップル(という言い方も古く聞こえるのは承知しているのだけれど、「男女」と書く時代でもないだろうと思い至った。僕の住む渋谷区では同性婚に近い「パートナーシップ証明書」の交付がすでに認められている。よって好き合っている可能性の高い二人を「男女」とは書き難い。とは言え、男女(あるいは男男または女女。ときに男女男または女男女)という補足も煩わしい。よって回帰して「カップル」という名詞を使う。よのなかではどう表現しているのかしらん。)がするものであり、関係が落ち着くとその頻度が急激に落ちる印象がある。例えば、先日、汐留にあるコンラッド東京のラウンジ・バーに夜訪れたのだけれど、他の客たちを見ると友人同士らしき人たちを除くと、先に挙げたような付き合う前や付き合いたて風のカップルが、がぜん多かった。様子から勝手に想像した関係ではあるけれど。あるいは、とても若い女性と彼女の倍以上に歳をとった男性のカップルも少なくなかった。誰と誰がどのようなデートをしたって一向にかまわないのだけれど、言いたいのは、夫婦や長い付き合いのカップルだって、もっとデートをしても良いのではないか、ということである。

 

 しかし、先日、よくしらない街を散策している最中に、小さな中華料理屋さんに入ったときのこと。隣とその向こうの席のふたつ組が老夫婦であった。頼んだ料理や最近あったことについて語り合っている様子はとても良かった。が、これはデートとは言い難い。では、僕の言うデートとはどんなものか。

 

それは、行く前にちょっとでいいのでワクワクすること。そしてちょっとでいいので非日常であること。それが僕の言うところのデートである。

 

 冒頭での付き合う前や付き合いたてのカップルがデートをする姿としてよく見かける理由は、彼らの目的が「会うこと」だからだろう。もちろん会って話すとか親密になるとかその他含めていろいろあるだろうけれど、会わないでいることが普通の状態であり、だから会う理由としてのデートが必要になる。しかし付き合いはじめて一緒に暮らしたり、結婚したりすると毎日顔を見合わせることになる。もう会うためのデートは必要ではなくなるのである。

 

 常々、よく知りたいと思っていることに、フランスやイタリヤのカップルや夫婦たちはどのようにして末永く恋愛の対象として付き合い続けているのだろうか、ということである。まだ良く調べていないが、自分なりにこの件について考えて、思うところは、ある種の不断の努力は必要であるはずだ、ということである。恋とは、手に入りそうで入らない、入らないかも入るかもしれない、いくぶん高嶺の方に感じる可能性から始まる。そこからオブセッションが始まり、ちょっと気が狂う。気を狂わせながら、うまく行ったり行かなかったりして練り進む病的なやり取りである。成就して落ち着いたころには、このオブセッシブな情熱は消えてしまう。それでもなお、カップルが継続的に性の対象としたまま仲良くし続けるには、どうしたらよいのだろうか。これに関して不得手にすぎる日本人としては、特異そうなフランス、イタリアなどのラテン系ヨーロッパ人たちに多く学びたい。おそらく努力と思ってしているわけではない何かがあるように思う。つまり文化化しているはずだと。その文化を学びたく思うのだけれど、未だよく調べてはいない。そこで暫定的な仮説兼試みとして、デートは悪くないではないかと思っている次第である。なう。

 

 さて、個人的な試みはともかくデートである。どんなデートが良いだろうか。ちょっとワクワクして、ちょっと非日常。映画なんてお手軽なデートだろう。しかし映画だけみても今ひとつ物足りない。映画プラスアルファが必要じゃないだろうか。その後バーでちょっと飲んで帰るとか。デートらしくなる気がする。そしてバーに行くなら、バーに来てるね!って実感する格好が良いのではないだろうか。ドレスとかスーツとかは気負いすぎのきらいがあるとしても、ちょっとおめかししたい。ホテルのバーは何かと楽しい。もちろんホテルじゃなくてもどこか良さそうなバーがあるならそこだって良い。

 

 遠出も良いのだが、経験からして、長い付き合いのカップルは遠出すると喧嘩しがちな気がする。いや大丈夫、喧嘩などしない、というのならば、海や山にちょっと行ってぼうっとしてくるのもいいし、アスレチックも良い。嫌いじゃないならキャンプも良いだろう。仲の良さそうなカップルと一緒に行くのも良い。よそのカップルが仲良くしている姿をみると長いあいだ作ってきた自分たちの当たり前が、世間の当たり前とちょっと違うかもしれないことに気がつくから。

 

 場所だけじゃなくて時間の非日常も楽しいものである。早朝の4時や5時からどこかに出かけるのも良い。パレスホテル東京の朝食ブッフェは朝6時から食べられる。皇居の外堀を観ながら、ゆっくり朝食をとるデートも悪くない。6時からなら食べ終わっても8時前だろう。そのまま出社だってできる。

 

 夜明け前の出発といえば、登山も悪くない。しかし登山にもなるとデートというより、そのまま登山と言うことになるだろうか。釣りも然りか。でもふたりでワクワクするなら、どこだって、なんだってデートになるのだろうから良いか。

 

 知らない街をただただ散歩するデートも良い。東京なら広いから知らない街だらけである。時間の非日常感も使えば、たとえ近くとも知らない世界がいっぱいある。休日のオフィス街は静かで趣に近いものがあるし、夜中過ぎの渋谷は若い匂いがするし、同じ時間帯の新宿はちょっとしたカオスがある。

 

 どこにいつ行くのも良いが、目的は相手を楽しませることである。楽しみにしていたイベントが雨や電車の事故でだめになっても、相手を楽しませられたなら、とっても良いデートとなる。天気も映画の良し悪しもお店の店員さんの態度も二の次で、一番は相手が楽しむということである。

 けだし相手がいつもより楽しい気持ちになる、いつもより笑う回数が多くなる、そういう時間をまるっと作る、ということがデートの要諦ではないだろうか。肉屋さんでハムカツを買って食べながら雪道を歩くのも、暖かいお茶かコーヒーをポットに入れて、夜明けの歩道橋の上から車の行き来を観ながらぼうっとして、その辺のベンチで飲み物をちょっと飲み合うのも、なんでも良い。ただ非日常が含まれていると良い。なぜなら、それが普段から一緒にいる人の知らない顔に光をかすかながらも当てるからである。

 

 

 

 

いつも少し悲しい理由

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思うに、人生を十分に使い切ろうと思うならば、人生の終焉を常に意識するのが良いのだろう。でも実際にそれを実行するのは難しい。今日死ぬと思って行動するのも、明日死ぬと思って行動するのも、余命あと半年だと思って行動するのも難しい。実際にはいつ死ぬか分からないのだから、ついついどうしたって油断してしまう。

 

他人についてもそうだろう。彼らとはまた会えると思って接してしまいがちになる。二度と会えない可能性だってそうそう高くはないはずである。しかしときどきその人と会うのが最後になってしまうという経験をしてしまう。つい数ヶ月前にもそういう経験を僕はしたばかりである。癌でその人は亡くなってしまった。未だに快活なその人の声を僕は思い出すことができる。だから一期一会のように、このひとと会うのがこれが最後と思って接したいものであるが、それもやっぱり少しむずかしい。とは言え、自分の生命より他人の生命のほうが、その終わりを意識はしやすい。自分の寿命など、背中についた張り紙みたいに貼られていることに気づいたところで、なかなか見ることができないからよくわからないままだから。

 

昔はそうでもなかったのだろう。人の死はもっと頻繁だった。近代でも大きな戦争が2つもあった。その少し前なら衛生の問題もあるし、そもそも寿命も短かった。また社会階層は今よりあからさまであり、その分、ある種の人々の生命は安かった。奴隷も常識の中にいた。文化と時代が異なれば、老人や身体の弱い人間はけっこうあっさり殺された。そんななかであれば、人の生命の有限性を今よりずっと意識したことだろう。しかしアブラハム・マズローの欲求五段解説を参照すれば、人が求めるものは環境により変化する。生きるのが大変なころ、人々は自己実現より先に食べることや眠ることを求めるし、安全を求める。今のわたしたちが求めるものと過酷な時代の人々が求めるものは大きく異なっているだろうから、そう簡単には比較はできまい。生き残りをかけた競争の中においては自分や他者の有限性が、それすなわち慈しみになるわけでもないだろう。

 

現代の中で一番密接に大切なものの有限性を感じるのは、近しいもののなかに瀕死の方がいらっしゃるかたを除けば、犬、猫などの動物と一緒に暮らしている人たちではないだろうか。酪農家や屠殺に関わる人達もそうかしれないが、より身近な人たちのなかで言えば、そういうことになるだろう。日本の保健所において殺処分される犬猫の数は尋常ではないから、碌でもない飼い主も多数いるだろうが、彼らはこの話の対象外である。犬猫を虐待したり、殺したり、捨てたりする人を、僕は社会悪とすら思えず、単にクズだとしか思えない。そういう人間たちを集めてそこそこ不自由しない島に限定して暮らすようになれば良いのにと常々思っている。クズがクズ同士で社会を営めばいいのに。そうはいかないだろうけれど。それは今回の話のテーマではないので、ここでやめる。

 

犬猫と一緒に暮らす人たち。彼らの多くは自分の死より先に、慈しみ続けた犬猫の生老病死を体験することになる。僕自身数年前に、生まれるところから観てきた猫の死を見届けた。14年と少し生きただろうか。

 

動物を飼うというのは、なかなか不便なものである。旅行にも行きづらいし、犬なら散歩をしなくてはいけないし、猫だってご飯をあげたり、撫でたり、爪を切ったりしなくてはいけない。病気になったら病院に連れて行かなくてはいけないし、そもそも言葉を喋られないから、こちらが十二分に注意を向けていないと彼らがどんな状態か分からないままである。仕事の邪魔はするし、夜明け前に起こしてきたりする。「今日だけちょっと待って」という嘆願も聞き分けてはもらえない。癇癪を起こして乱暴に扱えば、容易に彼らは怖がり、ケガをして、なんなら死んでしまう。有り体に言えば、強制的に寛容さと愛情をもって接しなくてはならない生活になる。

 

そういうことを飼い主たちは、最初からではなく、一緒に暮らすなかで少しずつ学んでいく。事故や病気で夭折してしまう動物もいるだろうし、長生きすることもあるだろうけれど、いずれにしろどこかで犬猫の死を意識し始めたり、体験したりする。死が視界に見えるとき、やっぱりどうしたって彼らに対して僕らはベストの接し方をしなくてはいけないと強く思うようになる。どうしたら犬猫の人生の幸福度を最大限にできるだろうかと考えるようになる。そんなことをしているうちに身につく姿勢には、犬猫にかぎらず、人に対してもまた、寛容と愛情をもって接する傾向が含まれ得る。世話をしているつもりが、犬猫から飼い主たちは多くのことを学ぶことになる。人生の密度を濃くしてくれる性質を身に着けさせてもらうことになる。

 

しかしその一方で、犬猫を慈しめば慈しむほどに、その期間がながければ長いほどに、彼らを失うことを占いや予言など待たずに知っている飼い主は、可愛らしい犬猫の姿を見るときに、いつも少しだけ悲しい気持ちになる。無邪気に尻尾を振る犬の目や、床で伸びをする猫の姿に悲しみの影をみてしまう。つまるところ、何かを大切にするということは、そこに必ずペーソス、悲しみを抱くということになる。そしてそれが正しい在り方である。

 

僕らは、誰か大切な人を見るとき、いつもそこに悲しみが含まれているべきなのである。それが慈しみを育んでくれることになる。対象の幸福や喜びをできるかぎり最大値にしたいと願う気持ちが確固としたものになる。そしてそれを知ることができたら、次に、僕らはその目を自分に向けると良いのだろう。自分もまた死ぬということを大切な犬猫、友人、恋人、伴侶のいずれくる死を通して学習していく。それが生き方としてなかなかに自然で美しい流れに思う。「情けは人のためならず」とはこういう意味なのか。それはさておき、そんなわけで少しだけいつも悲しいことはとても良いことなのだ。

旅としてのホテル

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東京には程度の差こそあれ、「高級」と冠につけられるホテルが30以上ある。頻度高く何かと足を運ばれる方も、そう滅多に訪れない方もいるだろう。ホテルのラウンジは打ち合わせや顔合わせなど、ビジネスに利用される方も多いだろうし、仕事帰りにバーに立ち寄る方も少なくないかもしれない。僕自身は、ラウンジで会議をすることもあれば、バーに行くこともあるし、時折宿泊もする。さは言えど、頻度が高いというほどでもない。そこに住んでいる方などを除けば、「時折」程度かそれ以下しか訪れない人のほうが圧倒的に多いはずである。何が言いたいのかといえば、「高級」とつくホテルは、基本的に「非日常」であるということである。

 

「非日常」にも程度の差はいろいろとあるだろう。僕自身は、出不精ぎみなのもあって住んでいる渋谷区より外に出ることがあまりないから、港区だろうが、板橋区だろうが、江東区だろうが、どこを訪れても、そこそこ「非日常」である。なのでそれらを楽しもうと思えば、なかなか楽しめる。平日のある日を休みにして、赤羽で朝7時から飲んで所謂「せんべろ(千円でベロベロになる)」を体験したこともあったが、それはそれは楽しかった。昼過ぎには、まさにベロベロになってしまう。うちへ帰って寝ても、起きれば夕方前後でまだ一日が終わっていないという、それこそまさに「非日常」な時間のポケットに身を置くことにもなる。しかしこれらは程度で言えば「浅い」ほうの非日常であろう。映画鑑賞などもこの「浅め」の非日常には含まれるだろう。良い映画ながら、日常から2時間前後すっかり切り離されて、殺されそうになったり、地球を救ったり、エイリアンと戦ったりできる。「なんだかんだ言って大丈夫」という安心の背後からとは言え、普段からは乖離できる。乖離することの良さは、小説などのフィクションが担っているものであるが、「日常」というものの輪郭を覚えることができることだろう。人の気持ちとか、普通にそこにあるものの大切さだとか、そういう輪郭である。これ、とっても大事で、こういうことを怠っていると、日常というものの輪郭が消滅してしまって、大切なものが大切であることをすっかり忘れてしまうことになる。失って気づくならまだしも、失ってもそれが大切だったことに気づかなくすらなるかもしれない。

 

徒然に書いているぶん、前置きが長いか。「深め」の非日常は、旅であろう。知らない土地の匂い、人、食べ物、景色。国内だろうが、国外だろうが、目に入るものすべてが新鮮で彩度も高い。キャンプなどのアウトドアアクティビティもこれに相当するだろう。焚き火の匂いや外気を感じて眠り、目が覚めることなど、感覚が泡立つように敏感になる。単に日常の輪郭に触れる以上に、知見を増やすというか、生き物として成長する栄養が旅には豊潤に含まれている。一人でも友人とでも恋人同士でも楽しいだろう。リスクが伴っているとその分、知覚は活性化されるから、未知なる国や登山なども、人生の成長にとって肥沃な行為といっても良いように思う。

 

そんななか先のホテルに泊まるというのは、その中間くらいの「非日常」ではないだろうか。忙しくて長い旅行に行けないときには、小さな旅に出るような心持ちで、宿泊するのは、脳や心にとても良い。リスクは何もないけれど、細部まで心配りされた空間においては、それなりに知覚が研ぎ澄まされる。(「小さな旅」として宿泊するのは、ちょっとお金がかかることに対して、小さな旅にいくつもりでいれば、それ相応と感じられるのも良い。)

 

まずは入り口から。「高級」という冠は、どうも垢にまみれ気味で、そのぶんシャビーに聞こえるので使いたくないので、以降ただ「ホテル」とだけ呼ぶが、ホテルに行くなら、最寄り駅からある程度離れているなら、タクシーで訪れるのが良い。駅から歩いて行くよりは、タクシーのほうがホテル的非日常に入り込むには適しているからである。例えば新宿にあるパークハイアットは、新宿駅から歩けば10分くらいの距離にある。だから新宿駅からタクシーに乗って訪れてもさほど良心(それくらいの距離歩けよという呵責は発現しない程度に)は痛まない。タクシーでホテルに到着するとタクシーのドアはいつものように自動で開かない、またはちょっとしか開かない。その代わり、ホテルの方が、さっとタクシーに近寄ってきてドアを開けてくれる。非日常の幕開けにはとっても良い始まり方に思う。

 

ホテルに入ると良い匂いがするところが多い。オリジナルのアロマデュフューザーを使っているためである。パレスホテル東京コンラッドシャングリ・ラホテルもそれぞれとても良い匂いがする。どこから匂いっているのかは探しても見当たらない。黴のような匂いやタバコの臭いなどしない。男女ともに惹かれるいい匂いがする。天然オイルを使っていても行為そのものは人工であるが、とは言え、旅先で触れることができる自分の日常になかった匂いとして感じることができる。

 

それからレセプションで宿泊の受付をすることになるが、レセプションの近くには、だいたいラウンジがあり、そこにはちゃんとした服装を着て背筋を伸ばした人たちがいる。夜ならデートをしているカップルも散見されることだろう。彼らもまた場所に後押しされるように高揚していることも多いだろう。見事な夜景が見えたり、揺らめく暖炉があったり、生演奏が高い天井のもとで響いていたりするのだから。

 

宿泊する部屋のあるフロアまでエレベーターで昇ると、今度は長い廊下がある。廊下のカーペットはフカフカで足音はあまりしない。窓のない廊下には迷宮、いやダンジョンのように、表示された数字だけが違うドアが延々と並んでいる。ホテルの廊下を歩いているとき、幾分不安に似た感情が湧かないだろうか。僕はかすかに湧く。勝手知ったる空間ではないし、異様に静かだし(それは賑やかなレセプションのあるロビーとは対照的でそれが故にことさらに)、窓がなくて薄暗いからだろう。自分たちの部屋をついたときには、その分ほっとする。

 

そしてドアを開けると綺麗に整った空間が現れる。ホテルや部屋にもよるが、ビジネスホテルよりはずっと広い。ときにはウェルカムフルーツやシャンパンがテーブルの上に用意されていたりする。高揚極まれりである。多くのホテルは、バスルームと部屋は視覚的に遮るものがないような作りになっている。ブライドを下ろせばもちろん閉じた空間になるが、開けておけば、バスルームから部屋を通して、窓の外の景色が見られる作りになっていることが多い。

 

さてそんな部屋についたところで一体何をするのか。僕はひとつしか思い当たらない。それはデートである。友だち同士でも楽しいのかもしれないが、僕には友だちとホテルに泊まって遊ぶという発想がどう頑張っても湧いてこない。デートのほか思いつかない。恋人でも伴侶でも良い。兎に角デートである。

 

ホテルでのデートは、即セックスかと言えば、それも悪くないが、せっかくだから嫌らしく引き伸ばすようにいろいろと楽しみたい。ホテリエに頼んでワインクーラーとグラスを持ってきてもらってシャンパンを開けるのも楽しいし、持ち込んだ小さなスピーカー(ホテルに使い勝手と音の良い音響設備が備わっているところは、すごく少ない。そんななかグランドハイアット東京はとても充実している。)で、好きな音楽を聞きながら、好きなお酒(例えばビール)を飲むのも良いだろう。それから良い匂いのするキャンドルをつけるのも(こうやって書くと気持ち悪いが実際にするのはさほど気持ち悪くない。はず。)良い。夜景がきれいな部屋なら部屋の電灯を消せば消すほど、夜景が綺麗に見えるからキャンドルがあると重宝する。

 

食事はホテルのレストランでも良いが、ルームサービスのほうが僕はもっと楽しいように思う。これは個人によりけりかもしれないが、ルームサービスは、テーブルにもなるワゴンに乗せてホテリエが静静と運び込んでくれる。その前にドアをノックか呼び鈴も鳴らす。ホテルのドアがノックされるのを聞くと僕はいつも特定のではない(たぶんもう抽象化された)映画のシーンを想起してしまう。何かこれから事件が起こるようなそんなワクワクした気持ちがちらっと湧くわけである。

余裕があれば、食事前にちょっとプールで泳いでみたい。即物的ではない色気のあるプールにはやはり高揚させられる。グランドハイアット東京のプールは狭いが縁の光っているジャグジーが併設されており、泳いでいる最中は、その光を水中でも浴びることになる。パークハイアットなら最上階にあるのでジムも含めて東京の街を見下ろすことができる。そこでさっと泳いでから部屋に帰ってルームサービスを頼むなら、バスローブのままでも良い。

 

決して安くはないが、旅だと思えば安いかもしれない。ホテリエたちはちゃんとした接客をしてくれるから、自分たちがそれにふさわしい人間であるかような気持ちにもなれるし、そんな気持ちでデートの相手に相まみえると随分と盛り上がれる。

 

僕は自宅以外で眠ると必ず深夜に目が覚めるのだけれど、そんなとき窓から見る景色が好きである。都内のホテルなら自宅からそう遠くはないかが、日常からは結構遠い場所である。間延びして点滅するビルの警告灯や高速を走るまばらな車などを観ていると、何かが去来しては言葉にならないまま霧散していく。そういう密度のある沈黙を抱えたまた再び眠ると、起きたときに眠る前とは少し違った場所にいるような気持ちになる。それがきっと旅が僕らに与えてくれるものの本質的なものの一つなのだろう。だからホテルに泊まるというのは小さな旅だと、やっぱり思える。

恋という天災からの生き残り方

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恋に関することわざや格言みたいなものをみているとそのほとんどが「よした方が良い」という警句みたいなものである。そこには逆説的な前提を見ることができるわけで、「にもかかわらず」人は色恋沙汰に巻き込まれるものである、というのがそれである。酒やドラッグのトラブルは避けられるだろうけれど、色恋沙汰から逃れることはむつかしく、巻き込まれたら最後、無傷では帰ってこられない。だから警句がわんさかとあるのだろう。

 

「恋」という言葉に相当する英語は、たぶんない。恋と恋愛と求め合うものが形成する関係とをぜんぶひっくるめて“love”と呼んでいる。そもそも日本語でもこれらは概ね一緒くたにされているかもしれない。しかしここでは、これらを分けて定義したい。

 

恋は、視点が一人称である。誰か他者を求めているが、その人を得られるか得られないか不確かであり、そこにご執心してそれ以外は考えられない精神状態を言う。オブセッションである。不確かなまま互いに探り合う状態もまたそれぞれの恋と言えるが、視点は一人称のままである。それが複数あるだけである。精神的には異常な状態で冷静ではいられなくなっている。多少の差こそあれ。

 

恋愛は、もう少し穏やかであり、好きあい始めるところから、愛おしい感情を交換しあう状態までを意味するものである。視点は三人称に近い。恋との違いは、相手の感情が不確定である故に渦巻く不安と執心がないことである。

 

求め合うものが形成する関係、と長い名詞になったが、恋愛が二者の関係の発生期の状態であるのに対して、さらに落ち着いてパートナーと化した状態の、それでいて性的対象であり続ける状態として定義している。

 

 

さて、このような定義をして何が言いたいのかと言えば、恋というのはオブセッションであり、不健康であり、過ぎ去ったときに何かを奪い去っていくものであるにも関わらず、人は巻き込まれるものであるのだけれど、それは悪いことではないということと、とは言えこじらせれば死に至る危険もあるから、予後気をつけたい、ということである。野口晴哉という方の著書に『風邪の効用』という面白いものがあるのだけれど、風邪というものは身体に悪いものではなく、必要なものであるのだけれど、その扱いが大事だとという主旨の内容である。風邪をひいた後は、身体は柔軟性を取り戻すのだそうだ。60年くらい前の著書であるし、ことの真偽は定かではないが、なんとなく「そうかもしれない」と思わなくもない。風邪をひいて治ったあと、なんとなく身体が前より調子良くなっている気がしないでもない。もちろん気の所為かもしれないけれど、恋もこの考えに近いのではないか、と思う。熱に浮かされて、思うように行動できなくなるが、ちゃんと経過させれば人としてより丈夫になる、というかより良くなるもの、という意味において、しっくりくるアナロジーではないだろうか。

 

でも気をつけないと人生を台無しにしてしまいかねない。どう気をつけたら良いのか、という根拠なき示唆を提示したいのだけれど、その前に、恋というものはオブセッションであるにもかかわらず、身体に悪いものではない、ということについて語ってみたい。

 

恋というものがどのように発生するのかと言えば、ふとしたきっかけ(出会う、触れる、匂い、エトセトラ)で、自分より高みにいる存在を身体が補完する形で心が強く求め始めるときに発生する。いつでもなんらかの意味で、自分が思っている自分のポジションより高い場所にいる相手にである。原始的には、おそらく子孫繁栄の目的意識があって、より良い子を作るために至高の相手とつがいたいという動機だったのだろうけれど、社会的な生物として長い歴史を歩む中で、子供を作ることを必ずしも前提としない動機として独立した、と僕は思っている。しかし原始的な動機であるがゆえに、理屈ではコントロールできない。冷静な判断を奪うのは、冷静な判断などしていては、仕事などをそっちのけにして、手に入いるか分からない相手に多くの資源を費やすことが難しいからである。人間が、仕事ばかりに勤しんで、誰かを好きにならないなら、僕らは死滅してしまう。そんなわけで強い力で人は恋というオブセッションにときに巻き込まれるものである。それも不意に。若ければ若いほど予想外なタイミングで発生するが、年をとって賢くなっても、それでも抗いがたい力で巻き込まれ得る。こればかりは生き物として致し方ない。理屈を奪うオブセッションであるがゆえ、そしてそれは成就しようがしまいが、過ぎ去るものであるがゆえに、過ぎ去ったときには、何かしら大切なものを失うことが多い。時間かもしれないし、仕事かもしれない。はたまた家族かもしれない。「どうしてそんな馬鹿なことをするのか」と傍からは呆れられるのも恋の常であろう。しかしそれでも「良い」ものと考えるのは、陥っているときのオーガズムに似た高揚感を得られるからではなく、失った後に、人に深みを持たせるからである。恋の原始は、動物的な動機にあるが、その過程には、人は文学的な解釈を何千年という間に浸透させてきた。結果、それは芸術として再表現されるものになり、人は自らの経験と他者の表現との間で、憧憬と消失の体験を交換することができるようになる。シェイクスピア与謝野晶子の詩の意味を理解し、そこに美しさを感じ、歌を聴いては誰かを思い出す。香水や場所でも誰かと過ごした時を思い出す。そういう行為を通して人は、社会的生物としての人間として、深みを獲得していく。それは悪いことではないはずである。

 

その一方で予後に気をつけないと死にいたりかねないので気をつけたい。具体的には、憎しみと萎縮である。憎しみというのは想像にかたくないはずである。人が人を殺すとき、戦争以外では金と色恋沙汰によることが圧倒的に多いはずである。殺さずとも、振った相手や自分の恋人を奪った相手に対して燃えるような憎しみを感じることは多々あるだろう。

 

ちなみに付き合っている人が去っていくときにも恋のようなオブセッションに陥るが、それはともに「不確かさ」が生み出している。「得られるかもしれない」と「得られないかもしれない」の間にある不確かさと「失うかもしれない」という不確かさ。これらがオブセッションを生み出す力である。

 

憎しみという感情が、すべて悪いわけではない。必要だからわたしたちの中に湧くのであろうし、映画などのフィクションの多くは、憎しみを感情移入とプロットの原動力として利用している。しかし囚われてしまうと大切な資源である時間が多く奪われてしまう。そして人としての深みを得る良き経験であったはずの恋なのに、その後に生まれた憎しみに囚われてしまうと人は、思考が萎縮してしまう。偏狭になる。よく振られた後に「見返してやる!」という気持ちを原動力として立ち直る話があるが、見返してやれるほどに元気になったあとは、見返すことなど忘れているものであるし、それが良い。なぜなら自分を振った相手のことに使う時間は無駄だからである。

 

復讐というものは生産的なものではないことは理屈では誰もが理解できるだろうけれど、さはいえ、しないわけにはいかない類の蛮行はあろう。その例は、アクション映画から簡単に得られるはずである。しかしこと恋においては、復讐とか見返すことにほとんど意味がない。それでも溜飲が下がらない!ということもあろうが、そんなときはほどほどの手段で、下がるように工夫したいが、相手が「前の前の」恋人になったときくらいにはどうせ、あんまり思い出すことがなくなるのだから、やっぱりそこに執心しないほうが良かろう。

 

もうひとつの気をつけたいことである萎縮は、恋を経て傷ついた結果、恋をむやみに敬遠してしまうことである。「女なんて」「男なんて」と世界を一絡げに忌むというのは、ものすごくもったいない。こと恋に関しては、ある程度無反省はほうが良い。もちろん自分の中に「良からぬ相手に惹かれてしまう傾向」というものがあるならば、それはなんとかしたほうが良いだろう。しかし山田詠美氏の小説の中で「恋はすればするほど百戦錬磨のように強くなるのではなく、むしろどんどん臆病になっていく」というような言葉があったとおぼろに記憶しているのだけれど、そうなんだけど、あんまり臆病になってしまうと自分の中の魅力をすべて摘み取ってしまうことになる。

 

長くなったのでこの辺で筆をおくが、まとめると恋というの生き物としての人間なら避けがたいオブセッションであり、そこを経たときに多かれ少なかれ何かを失うものである。しかし失うことで別の何か(ここでは深みと呼んだ)を得る。それは人生の彩度を高めるものである。だから野口晴哉先生の言うところの風邪のように、ときおり経過させると良い。しかし予後で憎しみと萎縮には気をつけないと、その後の人生には色がなくなってしまうか、ときどき死んじゃうかもしれない。人を好きになって何かを失っても、うまく言葉にできない大切なものを引き換えに得ているということを言いたかったわけである。

シャンパンは安い

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ブログタイトルにもあるので、たまにシャンパンの話をしたい。シャンパンは比較的高いワインである。泡のないワイン(スティル・ワイン)は、安ければ1000円以下で購入できるのに、シャンパンはすごく安くてもだいたい3000円以上する。その辺のスーパーで購入するならだいたい5000円前後くらいする。ワイン専門店に行けば、平均価格はもう少し上がる。なぜスティル・ワインより高いのかというと手間がかかっているからである。シャンパンはスティル・ワインを作ってからさらに泡をつくるための発酵を瓶のなかでしなくてはならない。それに15ヶ月は熟成させる時間を義務付けられている。これを守らないと「シャンパン」と名乗ってはいけない。そんなこんなでシャンパンは多くのスティル・ワインより高めにになる。それをなぜ「安い」というのか、というのが今日の話である。

 

その前に1つ余談を許してほしい。安い方に目を向けると上記のようにスティル・ワインよりシャンパンのほうが高いが、高い方に目を向けるとスティル・ワインのほうがものすごく高いものが多い。田中康夫氏の小説『なんとなくクリスタル』のタイトルにはるクリスタルは、ルイ・ロデレールというメゾンが作っているプレスティージュ(より高品質なライン)のシャンパンの名である。このクリスタルはヴィンテージにもよるが、3.5万円くらいで購入できる。高いけど。その一方で、ナパバレーの高級ワインであるオーパスワンは4万以上、ボルドー5大シャトーのひとつ、シャトー・マルゴーなら8万くらい。ボルドー最高峰と謳われるシャトー・ペトリュスなら最近のヴィンテージでも30万以上する。※価格はワインショップのエノテカのウェブサイトで確認。10万を超えるシャンパンはそんなにない。高級でかつ有名なシャンパンは5万もしないで購入できる。そんなわけで、本当なら、そう簡単にはスティル・ワインよりシャンパンのほうが高い、とは言えない。でもまあ上の方にそんなに目をむけなければ、シャンパンのほうが高いって言ってよいだろう。というのが余談。

 

シャンパンをなぜ安いというのか。まずこの話に「デートのお供として」という条件を追記したい。安上がりだからシャンパンでデートに誘う、という考えに落ち着いて欲しくないが、コストパフォーマンス以外にもいろいろ素敵な副産物が含まれるからおすすめしたい考えとして開陳したい。シャンパンはどういうときに飲むのかといえば、開けたら飲みきらないといけないこと、高価であることなどから、お祝いの場が多いだろう。それをデートで飲むということは、相手といることを祝うほどありがたく思っている、という意思表示となる。「高価なこのお酒を開けるのにあなたは見合っています」と言っているわけである。だからデートにシャンパンを飲むのは、なかなか素敵な行為と言える。しかし随分高くついてしまそうである。レストランではワインの価格は2倍に、良心的なところでも1.5倍くらいになる。それでもレストランで飲むのは、それに見合った空間や料理を得ることができる。

 

のだけれど。スティル・ワインは、料理と合わせたり、抜栓してからの時間で味が変わったりと大変奥が深いが故にソムリエやレストラン側に任せる必要が多いその一方でシャンパンは温度と開け方くらいにしか気を使わなくて良いワイン。つまり自宅で開けることが容易である。素敵なホテルやレストランで食事をしてもかまわないけれど、そのくらいのつもりで用意した予算以下で、素敵なシャンパンとグラスを用意して自宅で飲むのは、なかなかの贅沢になるのではないだろうか。

 

さてそれはちょっと残念か。自宅だとそんなにムードがないだろうか。しかし自宅でシャンパンを開けて飲むということを考えて自分の家や部屋を考え直すというのはどうだろう。おもったより面倒な話になってきた感は否めない。しかしラブホテルという直接的すぎる施設の存在をロマンスを高める思考のもと無視したい僕としては、自宅がデートの場になることを想定すべきだと考える。たとえ狭くとも、綺麗に片付いていて、いい匂いがして、冷たくて明るすぎる蛍光灯ではなく、温かで穏やかな灯火で照らされた部屋ならそう悪くはないではないか。そもそもデートで自宅に呼びにくいという段階かもしれないが、それなら昼間に呼べば良い。ちょっと良いシャンパン(わかりやすくドン・ペリニヨンなど)を購入して、うちで飲もうという誘いを考えついてみると、今度は部屋をより良くするための工夫をせざるを得なくなる。誰かが、それもとても好きな誰かが来る場所と考えると、家具をホコリまみれのままにするわけにはいかなくなる。洗濯物をその辺に散らかすわけにもいかなくなる。トイレもキッチンもお風呂も綺麗にしなくてはいけない。それはコストがかかるものというよりも、実生活をより良くすることに含まれる。素敵なレストランで食事ももちろん大事だけれど、自宅でシャンパンを開ける、と考え始めると、単にコスパの問題というよりも、ロマンスにかこつけて自分の人生がより良くなる副作用が多数発生する。

 

今までの話は、実のところ男性主体で書いてきているが、女性にも当てはまる。何もデートに誘うのは男性と決まっているわけでもない。レストランでの支払いは男性がするものとしても、女性が男性を自宅に招いて、そこで素敵なシャンパン(例えばペリエ・ジュエのベル・エポック)を開けるというのは、やっぱり大変魅力的なものである。良いシャンパンを開けて飲むなら、ちょっと良いグラスで飲みたくなる。このブログで使っている写真のグラスはリーデルシャンパングラスで2脚で4000円弱。さほど高くもないが悪くないグラスである(さらに良いグラスが欲しくなったら、奮発してロブマイヤーになるか。洗うのが怖いけれど、シャンパンがとても美味しくなる。バカラも良い)。ちょっとムードのある照明をと考え始めると天井についている蛍光灯ではない照明が欲しくなる。天井ではない場所に設置する照明の多くは橙色の灯火で、それは実のところ焚き火を何万年としてきた人間が落ち着く色であり、しかも下からであればなおさらで、自分も含めて人が落ち着く部屋にしてくれる。次にいやらしくもベッドについて考えてみたい。パジャマなどを着る習慣のある日本人は、綺麗好きだと自覚している割に、裸で寝る傾向の高い欧米人にくらべて寝具周りを洗わないそうである。一人で寝るなら、別にかまわないけれど、誰かと寝るならば、やっぱり布団やまくらは綺麗でいたい。僕はそこそこ潔癖症なので油断した他人のベッドではあまり眠れないのだけれど、相手が僕のようにそこそこの潔癖症であるかもしれないと考えれば、なおさらである。ベッドのことを考えるなら、シャワーやお風呂のことも考えることになる。ときどき風呂場がカビだらけの(特に男性の)家をみることがあるが、そんなのはロマンスどころの話ではなくなる。ロマンスのためには安心して入れるお風呂場であるべきである。またきれいなだけでなくて、生活感もある程度排したい。洗剤やスポンジが真っ先に目につく浴室はちょっとこう盛り上がらないものがある。しまうなり、目についても良い気配にするなり、工夫したくなるだろう。そして匂い。自分では慣れて気づかなくなりがちだが、入った途端にその人の匂いでいっぱいの部屋というのは居心地が悪い。人の脂の匂いも、なんだか良くわからないものの不快な匂いももちろん嫌だ。ちゃんと掃除して洗濯するという習慣で、部屋の中には居心地の悪くなる匂いがないようにしたい。芳香剤でごまかすのは、言語道断である。安っぽいから。

 

そんなこんなで「レストランに行くよりも安くすむかもしれないからシャンパンを買って自宅で飲もう」と考えたとたんに、サステイナブルなロマンスの環境を作る羽目になる。それが良い。というのがこの話の結論である。部屋に呼んだり、呼ばれたりした途端に消えるロマンスはうちに持って帰って来られない。素敵なレストランで素敵な食事はとても良いが、そこからの続きには自宅になる。そこで冷めたりしないように、自分の日常にロマンスを持ち込める環境づくりのきっかけとして1万ちょっとくらいするシャンパンを買って冷蔵庫に入れる、というのは、実に安いお得な行為だと僕は思う。

愛では足りない

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 豹柄の服を上下に身に着けて、だみ声のパンチパーマみたいな髪型をした小太りのおばさんが「いやぁ、セックスしたいわぁ。抱かれたいわぁ。激しく」と言ったとして、または小学生が元気よくキックすれば背骨から折れそうな細く痩せこけたおじいちゃんがビブラートがかかっているかもしれないか細い声で「おめこしたい……」と呟いたして、それを笑うな!という話をしたい。

 

 老若関係なく、誰かと付き合い始めたり、結婚したりするとき、またはその渦中にいるとき、このような不安や疑念が心中に湧くことはないだろうか?「いつまで異性として相手を認めあえるのだろうか」と。おそらくだけれど、日本人は特に他国に較べて、時間が経過することで恋人同士ではなく、家族化してしまいがちに思う。他国の文化に精通しているわけではないので歯切れは悪い。しかし聞き及ぶに、そう推測する。結婚後がわかりやすいと思うのだけれど、個人名のあった男と個人名のあった女性は、子供ができるとそれを契機に、ママになり、パパになり、そう呼び合う夫婦は少なくない。思うのだけれど、「ママ」や「パパ」を呼ぶ相手を抱けるだろうか。僕の感覚では、どうもそれは気持ちが悪い。「ママ」と囁きながら、セックスをするってちょっと可笑しい。近親相姦みたいだ。「パパ」だって同様だ。もちろんこれは子供の存在を前提にこのように呼び合っていることは承知している。しかしどうして名前のままではいけないのか。子供が男と女をパパ、ママと呼ぶのは分かる。子供にとっての唯一無二の父と母である。固有名詞と変わりない。しかし男にとって女はママではなく、妻であり、その前にひとりの女である。たとえ子育てにどれほどクタクタになっていようと、上下別々の下着を身に着けていようと女である。男も朝から晩まで歩き続けて足が臭かろうと鼻毛が出ていようとやはり本質的に男である。行為ではなく属性として「セックス(性差)」を軽視、いや無視しがちな傾向を僕はここに見る気がしている。

 

 余談だが、世の風潮にあてられてジェンダーの問題と言及したくなる。しかしジェンダーというのは社会的に形成される人工的性差を指す。それは時代や国によって変化するのである。僕がいまここで言及しているのはジェンダーではなく、セックス(行為じゃなく名詞。性差)である。口にしづらいということでなんでもかんでも男女差や性的アイデンティティについて語る時、ジェンダーといいがちに思うが、正確にはこれらのはなしはばっちりセックスについてのものだ。

 

 閑話休題というほどでもないが、話を戻す。夫婦が家族化して何が悪いと言われるかもしれない。もちろんそもそも夫婦は家族なのであるが、ここで言う「家族化」はこう定義しておく。男女が伴侶についてすでにセックス(こっちは行為)の対象ではなくなっていることを「もう家族みたいなものだから」と表現することがある。「恋人」としてのパートナーと「家族」としてのパートナーは意味が異なる。しかし「恋人」には未婚のニュアンスが含まれる。よって「伴侶がセックスの非対象化する」ことを「家族化する」と。

 

 さて、それの何が悪いのか。おそらくだが高度成長期に日本は生活の中心にストーリーよりも経済的発展、社会的成長というものを重視する傾向が強化された。日本の経済的高度成長は、プロダクトのクオリティとスピードとコストを追求することで達成したと言ってもそれほど間違いではないはずだが、その際、労働力たるわたしたち市井は、合理性を追求した。見合いで結婚し、団地に暮らし、男は猛烈に働き、女性は母として家庭を切り盛りし、学歴を重視して効率的に社会ヒエラルキーを形成していく。分業により効率化していく社会のなかで、恋人たちは、恋愛にストーリーを差し込むことを差し控えはじめ、ラブホテルを時間制で利用して、セックスをして帰宅する。父となった男は、妻が母となり家族化したことで行き場のなくなった性欲を性風俗で消化する。母となった女の性欲は、基本的に「貞操」という概念で抹殺されて、我慢のうちに無視される。このような流れのままその先端に私たちが今いる。おおむね変わっていない。ストーリーではなく効率を重視したシステムであった合コンが減り(たぶん減っている?)、そのかわりに出会い系アプリが台頭している(はず)。出会い系アプリの台頭はどうも日本に限った話ではないらしい。それはともかく男女の出会いとその後のセックス、はたまた結婚後の性欲処理すら合理性のもと効率化されているは現状も変わりない。そこにどんな弊害があるのか。その自問に答える前にひとつ問いたくなる。女はいつから女であることを許されなくなるのか。男はいつから男であることを許されなくなるのか。と。

 

 ここで冒頭の話を思い出していただきたい。おじさんみたいなおばさんがセックスしたがってはいけないのか。植物みたいにしょぼくれてしまったおじいさんがセックスしたがってはいけないのか。否。そんなわけないだろうと。私たちは、人権がどうのとか宗教がどうのとかいう社会属性を身につけさせられる以前にまずささやかな存在ながら人生をまっとうしている一個体である。つまり人間である。私たちはどのようにして生きていくべきか、という考察にまで足を踏み込むと哲学としての話になっていくが、ちょっとだけそれについ考えてさっと足を引っ込めようと思うが、幸福の追求であろうが、幸福とは?とちょっと考えてみるとそれは牧歌的な死に方、ではない。穏やかに死ぬことが幸福ではない。幸福とは、生きている時間の多くを楽しんで過ごすことである。マズローの欲求五段階説が指示すがごとく、社会の状況によって私たちが求めるは異なってくる。生きていくのがやっとの世界ではまず生きていくことを求めるし、その次には安全を求めるだろう。しかしどのフェーズでもやはり私たちは「楽しい」と思える時間を追求していると言って良い。さてそれを前提としたとき、男女がセックスをしたい思うこと、実際にすることを軽視したとき、生きている実感や男女としての充足感、またはパートナーであることの体感を得る機会を失っていくことは、けっして良いことではない。ながくなったが、夫婦の家族化の弊害はこれである。夫婦がパパとかママとお父さんとかお母さんと呼びあうのはおかしいのである。そして良くないのである。自分が本質的に何を求めているのか、ということを軽視してはいけないのである。

 

 ではどうすべきなのか。

 

 家族化した夫婦が恋人として相手を見るようにするのは、ものすごく難しい。じゃあ離婚すべきかとか浮気を奨励するのかといえば、そういうことではない。なぜならこの話の目指すところは、個体の幸福の追求である。離婚や浮気の先に幸福があるなら良いだろう。ある場合だっておおいにある。よって家族化してしまった夫婦がこれからどうすべきかケースによって大きくことなる。だからここで解決方法やそのヒントのようなものを提示することは困難である。しかし女や男が、社会的役割(それこそジェンダーである)に自分の本質を抑圧させてはいけないということは強く主張したい。

 

 かといって、性犯罪すら犯しても致し方ないということでは絶対にない。その幸福の追求の仕方は短絡的すぎるし、一歩うしろにひいてみただけで、被害者の深い苦しみと加害者の社会的制裁が視界に入ってくるはずである。性犯罪まで及ばずとも短絡的な性欲の解消として人格を軽視したアプローチも美しくない。相手の快楽と自分の快楽の最大公約を目指すのがあるべき姿であろう。

 

家族化した夫婦が、回復しがたい悲しい状況にいるということでもないだろう。ただただ自分が母や父であると同時に女や男であることを軽視することをやめて重視してそれについて考えるのが良いと言いたい。女が「セックスをしたい」と思ったり、口にしたりすることを色情魔みたいに言うことなかれ。男が「セックスしたい」と思うことを、スケベと蔑視することなかれ。蔑視するならば、性欲だけフォーカスして関わる相手の感情を無視した思考と行為である。姦淫とセックスは別である。姦淫することなかれはセックスをするなという意味ではない。若すぎるものたちがそれを希求することは抑制すべきものがあるが、もちろん結果に責任を取れないからだが、働き始めたら、誰だって希求して良い。難しかろうが、相手が依然として大切な存在であれば、互いのセックスを重視してどうしていくべきかを考えれば良いだけである。解答なき問題ではない。

 

また家族化していない夫婦であれば、一層に相手をセックスの対象としても大切にすべきだし、また自分自身セックスと対象たろうと努力すべきである。かけがいのない存在として大切するということだけでは足りないのである。相手をすべて受けれて一緒に支え合いながら生きていくといことだけでは足りないのである。魅力的な男であらんとすべきであり、魅惑的な女であらんとすべきであり、相手のこともまた継続的にセックスの対象として接したい。セックスと肉体的な行為として追求できなくなったカップルもいるだろう。年齢的な限界ということもあろうし、病気や肉体の問題によってかもしれない。その場合もあまり変わらない。セックスというものは、厳密に言えば、肉体的な行為以上のものである。性差を使った思考の交換みたいな部分がある。バクテリアですら、セックスに似た行為をするのだそうだ。子作りのためのものに限定したものではない。だからペニスをヴァギナに挿入することすなわちセックスではなく、もっと多くのものをセックスは含んでいる。手を繋いで一緒に眠ることだってセックスに相当する。

 

相手をサステイナブルに大事にし続けるということは、つまるところ幸福とは何かという考察を経由する必要があるのだが、社会的または宗教的バイアスをできるだけ排して考えみれば、自然と自分の性をないがしろにしないほうが良いという発見か回顧に到達するはずだ。そうして自分と相手の性を「大切にする」という好意に含めていくべきである。

内側のピンク

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 先日、地下鉄構内の階段を登っているときに、目の前を歩く女性に注意を奪われることがあった。別にミニスカートでパンツが見えそうだったということではなく。身ぎれいにしていてスーツやスカートにはあまりシワもなく、毛玉もなく、白いシャツに黒いジャケットに丈の無難なスカートに少しだけヒールがある革靴、ボブくらいの長さの髪もちゃんとしていてボサボサじゃなかった。どこに注意を奪われたのかというと手提げにして持っていた黒い鞄が内側だけ鮮やかなピンクだったことにである。他が全部地味というか無難に小奇麗なのに、鞄の内側だけピンク。アピアランスに手を抜かずにいる女性が、鞄の内側以外をできるだけ地味に抑えている、というところから、僕は勝手に色気を感じたのだろう。ステロタイプな妄想の「一見地味な女の子が実はドエロ」とそう遠からずだろうと指摘されても、ノーとは言えないし、ほとんどその通りである。どんな性格でどんな生活をしていて、実際(?)にエロいのか、エロくないのか、ムスリムの女性たちはヒジャブなどで隠したその下がとても派手だと聞いたことがあるが、それを連想しつつ、地味な下に派手な、またはラディカルな下着を着ているのではないか、ということについて刹那想像を逞しくしたわけである。

 

 そんな女性を街で見かけて、思い出したのが妻が伊勢丹だか高島屋の女性の下着売り場で見かけた女性たちの話だった。齢は三十から四十代くらい。皆、スタイルが良いわけでもなく、なんならややぽっちゃりしていると表現しても良いくらいの体格。平日の日中にデパートの下着売り場に来ているから、専業主婦かもしれない。そして服装は、正直それほどぱっとしないもので、高そうにも見えなかったそうだ。にもかかわらず、ぜんぜん安くないというかちょっと高めの、それもいくぶん派手な赤や紫などの下着を、これが良いとかあれが良いなどと和気あいあいに選び合っていたとのこと。それについて、妻と僕は、上着はゴージャスだが下着がつまらない女性と上着は質素だが下着がゴージャスな女性では、後者のほうが魅力的だよね、という結論に至った。むろん、上着がゴージャスで下着もゴージャスというのも素敵だし、上着や下着が質素だとして何も非難されるべきことなどなにもないわけだけれど、自分が好き好んで接するなら、どういう人が良いかと考えたとき、地味に見えるくらいの外見なのに、その内側に秘めた色気がある人って魅力的で、知り合いたいし、親しくなりたいと強く思う。

 

 それはエロスの本質に、隠れている部分を露わにしたい欲求というものがあるからかもしれない。我々がわざわざ身体の一部(それこそ文字にして「秘部」)を隠すのは、この露わにしたいという動機を形成するためかもしれない。解かれることを期待して作られる難しい謎、のように誰かに暴かれることを期待して隠されるものというのは、思うに人を魅了する力を内包するというか創り出す。誰かに気づかれないと成立しない隠蔽なわけだけれど、エロスに限らないが、同種の人間には、同種に気づく触覚があり(よくSFで隠れたエイリアン同士が自分たちを認め合うみたいに。漫画『寄生獣』みたいに)、相手の隠蔽とか謎に気づくものである。

 

 僕の親しい人になんだかむやみにモテる人たちがいるのだけれど、彼女ら(彼ら)は、フェロモンに似たエロスの気配を我知れず発してるのではないかと僕は勘ぐっている。フェロモンは、人間にはもうなくって(フェロモンの名残としてまだあるのはワキガみたい)、そのかわりもうちょっとメンタルな信号としてエロスは、同種を引きつける力として機能しているのではないだろうか。

 

 ともあれ、頑張れば解ける謎、人を選ぶ課題と解答、そういう機能のもと、外側が地味で、内側がピンクのような地味とは対象的な気質や性質というものの存在は、とても興味深く、色っぽく、魅力的である。そういう意味では、下着というものが担っている社会的に役割というのは、思いの外重要なのではないだろうか。また同時に人間性というか生き物としての深みというものも育成していくことも下着のように重要である。人に見えない部分が後になって大事になってくるという意味で人の内面と下着が、アナロジーとして結びついているわけだけれど、それらはつまるところどこに向けられているのかといえば、サステイナブルに人と自分を魅了し続けることではないだろうか。一回セックスしたくらいで満足されてはつまらないわけである。脱がして、脱がされて、さらに興味をもたれたいし、持ちたいわけである。更新されるエロス、と表しても良いかもしれない。それを支えるのは、たぶん生物学的な好奇心なのだろう。猫を(にかぎらず好奇心を持つ全ての生き物を)ときどき殺すかもしれないが、好奇心は、生き物としての面白みを獲得させてくれる。そして時折、街で見かけた地味で小奇麗にした女性の鞄の内側のピンクに興味を向かせる。

 

 しかし下着というテーマに、一度焦点を戻すと、これはおおむね女性の下着についての話になるのではないだろうか。男性が下着に執着していろいろと凝った下着への探求をし始める姿に、あまり色気を感じない。むしろやや引くものがある。清潔でシンプルならいいじゃないかなと。女性たちの意見を時折拝聴すると、男性のTバックも悪くないという話も出てくるのだけど、男性のTバックは、肉体美の補助線を強烈に引くという役割を担っているのであって、女性の下着が担っている嗜好・思考の発露、というのとちと異なる気がする。男は、女性を困惑させない無難な下着で十分なのではないだろうか。役割としては、男性は女性を見るほう、持て成すほうであり、女性は見られる方、もてなされる方だと僕は思う。もちろん「らしさ」が拘束に及ばなくて良いわけだけれど(女性は女性らしく、男性は男性らしくという強迫はつまらないし、ときに弊害になる)、おおむねそのほうが具合や収まりが良いだろう。男性に求められるのは、意外性のある高価な下着ではなく、意外性のある高価な下着を纏う女性をちゃんと評価するという気配りというか姿勢だろう。

 

 じゃあどんな下着がより望ましいという話は、人によるだろうし、思うところもあるが今回は割愛する。その代わりの余談をひとつ。先日、最近親しくなったある女友だちに会ってお茶をしたのだけれど、会う前からこんな下着の話していて流れもあって、その友人は、「今日は、黒いランジェリーを身につけています」ということを教えてくれていた。お茶をしているだけでは、本当に黒い下着を着ているのかどうか確かめようもないのだけれど、「今日は黒いランジェリーを身に着けてます」と教えていくれている女性と一緒に過ごすというのは、声を大にして言いたいのだけれど、ものすごく楽しいものである。服を着て、ハーブティだかなんだかしらないけれど、おしとやかに飲んで、他愛もない話に笑って、少し経ったら落ち着いて、トイレにちょっと席を外してという、その間、「このこは今黒い下着を着ていて、それを僕が知っていることを知っているのだ」ということを考えることの屈折した楽しさといったらない。ただお茶を飲むだけなのに。

 

 変な余談を挿入したために何が言いたいのか、だんだん見失いがちになってきたのだけれど、たぶんこういうことが言いたい。暴かれたい謎のように女性なら下着、男性ならより(女性だって内面が大事だからこの「より」をつける)内面を軽視しないこと、と暴かれてからまた興味が湧くような奥底を好奇心を使って育むことが大事だ。ということを鞄の内側がピンクってドキドキしたこと経由で開陳したかったわけである。