シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

恋という天災からの生き残り方

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恋に関することわざや格言みたいなものをみているとそのほとんどが「よした方が良い」という警句みたいなものである。そこには逆説的な前提を見ることができるわけで、「にもかかわらず」人は色恋沙汰に巻き込まれるものである、というのがそれである。酒やドラッグのトラブルは避けられるだろうけれど、色恋沙汰から逃れることはむつかしく、巻き込まれたら最後、無傷では帰ってこられない。だから警句がわんさかとあるのだろう。

 

「恋」という言葉に相当する英語は、たぶんない。恋と恋愛と求め合うものが形成する関係とをぜんぶひっくるめて“love”と呼んでいる。そもそも日本語でもこれらは概ね一緒くたにされているかもしれない。しかしここでは、これらを分けて定義したい。

 

恋は、視点が一人称である。誰か他者を求めているが、その人を得られるか得られないか不確かであり、そこにご執心してそれ以外は考えられない精神状態を言う。オブセッションである。不確かなまま互いに探り合う状態もまたそれぞれの恋と言えるが、視点は一人称のままである。それが複数あるだけである。精神的には異常な状態で冷静ではいられなくなっている。多少の差こそあれ。

 

恋愛は、もう少し穏やかであり、好きあい始めるところから、愛おしい感情を交換しあう状態までを意味するものである。視点は三人称に近い。恋との違いは、相手の感情が不確定である故に渦巻く不安と執心がないことである。

 

求め合うものが形成する関係、と長い名詞になったが、恋愛が二者の関係の発生期の状態であるのに対して、さらに落ち着いてパートナーと化した状態の、それでいて性的対象であり続ける状態として定義している。

 

 

さて、このような定義をして何が言いたいのかと言えば、恋というのはオブセッションであり、不健康であり、過ぎ去ったときに何かを奪い去っていくものであるにも関わらず、人は巻き込まれるものであるのだけれど、それは悪いことではないということと、とは言えこじらせれば死に至る危険もあるから、予後気をつけたい、ということである。野口晴哉という方の著書に『風邪の効用』という面白いものがあるのだけれど、風邪というものは身体に悪いものではなく、必要なものであるのだけれど、その扱いが大事だとという主旨の内容である。風邪をひいた後は、身体は柔軟性を取り戻すのだそうだ。60年くらい前の著書であるし、ことの真偽は定かではないが、なんとなく「そうかもしれない」と思わなくもない。風邪をひいて治ったあと、なんとなく身体が前より調子良くなっている気がしないでもない。もちろん気の所為かもしれないけれど、恋もこの考えに近いのではないか、と思う。熱に浮かされて、思うように行動できなくなるが、ちゃんと経過させれば人としてより丈夫になる、というかより良くなるもの、という意味において、しっくりくるアナロジーではないだろうか。

 

でも気をつけないと人生を台無しにしてしまいかねない。どう気をつけたら良いのか、という根拠なき示唆を提示したいのだけれど、その前に、恋というものはオブセッションであるにもかかわらず、身体に悪いものではない、ということについて語ってみたい。

 

恋というものがどのように発生するのかと言えば、ふとしたきっかけ(出会う、触れる、匂い、エトセトラ)で、自分より高みにいる存在を身体が補完する形で心が強く求め始めるときに発生する。いつでもなんらかの意味で、自分が思っている自分のポジションより高い場所にいる相手にである。原始的には、おそらく子孫繁栄の目的意識があって、より良い子を作るために至高の相手とつがいたいという動機だったのだろうけれど、社会的な生物として長い歴史を歩む中で、子供を作ることを必ずしも前提としない動機として独立した、と僕は思っている。しかし原始的な動機であるがゆえに、理屈ではコントロールできない。冷静な判断を奪うのは、冷静な判断などしていては、仕事などをそっちのけにして、手に入いるか分からない相手に多くの資源を費やすことが難しいからである。人間が、仕事ばかりに勤しんで、誰かを好きにならないなら、僕らは死滅してしまう。そんなわけで強い力で人は恋というオブセッションにときに巻き込まれるものである。それも不意に。若ければ若いほど予想外なタイミングで発生するが、年をとって賢くなっても、それでも抗いがたい力で巻き込まれ得る。こればかりは生き物として致し方ない。理屈を奪うオブセッションであるがゆえ、そしてそれは成就しようがしまいが、過ぎ去るものであるがゆえに、過ぎ去ったときには、何かしら大切なものを失うことが多い。時間かもしれないし、仕事かもしれない。はたまた家族かもしれない。「どうしてそんな馬鹿なことをするのか」と傍からは呆れられるのも恋の常であろう。しかしそれでも「良い」ものと考えるのは、陥っているときのオーガズムに似た高揚感を得られるからではなく、失った後に、人に深みを持たせるからである。恋の原始は、動物的な動機にあるが、その過程には、人は文学的な解釈を何千年という間に浸透させてきた。結果、それは芸術として再表現されるものになり、人は自らの経験と他者の表現との間で、憧憬と消失の体験を交換することができるようになる。シェイクスピア与謝野晶子の詩の意味を理解し、そこに美しさを感じ、歌を聴いては誰かを思い出す。香水や場所でも誰かと過ごした時を思い出す。そういう行為を通して人は、社会的生物としての人間として、深みを獲得していく。それは悪いことではないはずである。

 

その一方で予後に気をつけないと死にいたりかねないので気をつけたい。具体的には、憎しみと萎縮である。憎しみというのは想像にかたくないはずである。人が人を殺すとき、戦争以外では金と色恋沙汰によることが圧倒的に多いはずである。殺さずとも、振った相手や自分の恋人を奪った相手に対して燃えるような憎しみを感じることは多々あるだろう。

 

ちなみに付き合っている人が去っていくときにも恋のようなオブセッションに陥るが、それはともに「不確かさ」が生み出している。「得られるかもしれない」と「得られないかもしれない」の間にある不確かさと「失うかもしれない」という不確かさ。これらがオブセッションを生み出す力である。

 

憎しみという感情が、すべて悪いわけではない。必要だからわたしたちの中に湧くのであろうし、映画などのフィクションの多くは、憎しみを感情移入とプロットの原動力として利用している。しかし囚われてしまうと大切な資源である時間が多く奪われてしまう。そして人としての深みを得る良き経験であったはずの恋なのに、その後に生まれた憎しみに囚われてしまうと人は、思考が萎縮してしまう。偏狭になる。よく振られた後に「見返してやる!」という気持ちを原動力として立ち直る話があるが、見返してやれるほどに元気になったあとは、見返すことなど忘れているものであるし、それが良い。なぜなら自分を振った相手のことに使う時間は無駄だからである。

 

復讐というものは生産的なものではないことは理屈では誰もが理解できるだろうけれど、さはいえ、しないわけにはいかない類の蛮行はあろう。その例は、アクション映画から簡単に得られるはずである。しかしこと恋においては、復讐とか見返すことにほとんど意味がない。それでも溜飲が下がらない!ということもあろうが、そんなときはほどほどの手段で、下がるように工夫したいが、相手が「前の前の」恋人になったときくらいにはどうせ、あんまり思い出すことがなくなるのだから、やっぱりそこに執心しないほうが良かろう。

 

もうひとつの気をつけたいことである萎縮は、恋を経て傷ついた結果、恋をむやみに敬遠してしまうことである。「女なんて」「男なんて」と世界を一絡げに忌むというのは、ものすごくもったいない。こと恋に関しては、ある程度無反省はほうが良い。もちろん自分の中に「良からぬ相手に惹かれてしまう傾向」というものがあるならば、それはなんとかしたほうが良いだろう。しかし山田詠美氏の小説の中で「恋はすればするほど百戦錬磨のように強くなるのではなく、むしろどんどん臆病になっていく」というような言葉があったとおぼろに記憶しているのだけれど、そうなんだけど、あんまり臆病になってしまうと自分の中の魅力をすべて摘み取ってしまうことになる。

 

長くなったのでこの辺で筆をおくが、まとめると恋というの生き物としての人間なら避けがたいオブセッションであり、そこを経たときに多かれ少なかれ何かを失うものである。しかし失うことで別の何か(ここでは深みと呼んだ)を得る。それは人生の彩度を高めるものである。だから野口晴哉先生の言うところの風邪のように、ときおり経過させると良い。しかし予後で憎しみと萎縮には気をつけないと、その後の人生には色がなくなってしまうか、ときどき死んじゃうかもしれない。人を好きになって何かを失っても、うまく言葉にできない大切なものを引き換えに得ているということを言いたかったわけである。

シャンパンは安い

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ブログタイトルにもあるので、たまにシャンパンの話をしたい。シャンパンは比較的高いワインである。泡のないワイン(スティル・ワイン)は、安ければ1000円以下で購入できるのに、シャンパンはすごく安くてもだいたい3000円以上する。その辺のスーパーで購入するならだいたい5000円前後くらいする。ワイン専門店に行けば、平均価格はもう少し上がる。なぜスティル・ワインより高いのかというと手間がかかっているからである。シャンパンはスティル・ワインを作ってからさらに泡をつくるための発酵を瓶のなかでしなくてはならない。それに15ヶ月は熟成させる時間を義務付けられている。これを守らないと「シャンパン」と名乗ってはいけない。そんなこんなでシャンパンは多くのスティル・ワインより高めにになる。それをなぜ「安い」というのか、というのが今日の話である。

 

その前に1つ余談を許してほしい。安い方に目を向けると上記のようにスティル・ワインよりシャンパンのほうが高いが、高い方に目を向けるとスティル・ワインのほうがものすごく高いものが多い。田中康夫氏の小説『なんとなくクリスタル』のタイトルにはるクリスタルは、ルイ・ロデレールというメゾンが作っているプレスティージュ(より高品質なライン)のシャンパンの名である。このクリスタルはヴィンテージにもよるが、3.5万円くらいで購入できる。高いけど。その一方で、ナパバレーの高級ワインであるオーパスワンは4万以上、ボルドー5大シャトーのひとつ、シャトー・マルゴーなら8万くらい。ボルドー最高峰と謳われるシャトー・ペトリュスなら最近のヴィンテージでも30万以上する。※価格はワインショップのエノテカのウェブサイトで確認。10万を超えるシャンパンはそんなにない。高級でかつ有名なシャンパンは5万もしないで購入できる。そんなわけで、本当なら、そう簡単にはスティル・ワインよりシャンパンのほうが高い、とは言えない。でもまあ上の方にそんなに目をむけなければ、シャンパンのほうが高いって言ってよいだろう。というのが余談。

 

シャンパンをなぜ安いというのか。まずこの話に「デートのお供として」という条件を追記したい。安上がりだからシャンパンでデートに誘う、という考えに落ち着いて欲しくないが、コストパフォーマンス以外にもいろいろ素敵な副産物が含まれるからおすすめしたい考えとして開陳したい。シャンパンはどういうときに飲むのかといえば、開けたら飲みきらないといけないこと、高価であることなどから、お祝いの場が多いだろう。それをデートで飲むということは、相手といることを祝うほどありがたく思っている、という意思表示となる。「高価なこのお酒を開けるのにあなたは見合っています」と言っているわけである。だからデートにシャンパンを飲むのは、なかなか素敵な行為と言える。しかし随分高くついてしまそうである。レストランではワインの価格は2倍に、良心的なところでも1.5倍くらいになる。それでもレストランで飲むのは、それに見合った空間や料理を得ることができる。

 

のだけれど。スティル・ワインは、料理と合わせたり、抜栓してからの時間で味が変わったりと大変奥が深いが故にソムリエやレストラン側に任せる必要が多いその一方でシャンパンは温度と開け方くらいにしか気を使わなくて良いワイン。つまり自宅で開けることが容易である。素敵なホテルやレストランで食事をしてもかまわないけれど、そのくらいのつもりで用意した予算以下で、素敵なシャンパンとグラスを用意して自宅で飲むのは、なかなかの贅沢になるのではないだろうか。

 

さてそれはちょっと残念か。自宅だとそんなにムードがないだろうか。しかし自宅でシャンパンを開けて飲むということを考えて自分の家や部屋を考え直すというのはどうだろう。おもったより面倒な話になってきた感は否めない。しかしラブホテルという直接的すぎる施設の存在をロマンスを高める思考のもと無視したい僕としては、自宅がデートの場になることを想定すべきだと考える。たとえ狭くとも、綺麗に片付いていて、いい匂いがして、冷たくて明るすぎる蛍光灯ではなく、温かで穏やかな灯火で照らされた部屋ならそう悪くはないではないか。そもそもデートで自宅に呼びにくいという段階かもしれないが、それなら昼間に呼べば良い。ちょっと良いシャンパン(わかりやすくドン・ペリニヨンなど)を購入して、うちで飲もうという誘いを考えついてみると、今度は部屋をより良くするための工夫をせざるを得なくなる。誰かが、それもとても好きな誰かが来る場所と考えると、家具をホコリまみれのままにするわけにはいかなくなる。洗濯物をその辺に散らかすわけにもいかなくなる。トイレもキッチンもお風呂も綺麗にしなくてはいけない。それはコストがかかるものというよりも、実生活をより良くすることに含まれる。素敵なレストランで食事ももちろん大事だけれど、自宅でシャンパンを開ける、と考え始めると、単にコスパの問題というよりも、ロマンスにかこつけて自分の人生がより良くなる副作用が多数発生する。

 

今までの話は、実のところ男性主体で書いてきているが、女性にも当てはまる。何もデートに誘うのは男性と決まっているわけでもない。レストランでの支払いは男性がするものとしても、女性が男性を自宅に招いて、そこで素敵なシャンパン(例えばペリエ・ジュエのベル・エポック)を開けるというのは、やっぱり大変魅力的なものである。良いシャンパンを開けて飲むなら、ちょっと良いグラスで飲みたくなる。このブログで使っている写真のグラスはリーデルシャンパングラスで2脚で4000円弱。さほど高くもないが悪くないグラスである(さらに良いグラスが欲しくなったら、奮発してロブマイヤーになるか。洗うのが怖いけれど、シャンパンがとても美味しくなる。バカラも良い)。ちょっとムードのある照明をと考え始めると天井についている蛍光灯ではない照明が欲しくなる。天井ではない場所に設置する照明の多くは橙色の灯火で、それは実のところ焚き火を何万年としてきた人間が落ち着く色であり、しかも下からであればなおさらで、自分も含めて人が落ち着く部屋にしてくれる。次にいやらしくもベッドについて考えてみたい。パジャマなどを着る習慣のある日本人は、綺麗好きだと自覚している割に、裸で寝る傾向の高い欧米人にくらべて寝具周りを洗わないそうである。一人で寝るなら、別にかまわないけれど、誰かと寝るならば、やっぱり布団やまくらは綺麗でいたい。僕はそこそこ潔癖症なので油断した他人のベッドではあまり眠れないのだけれど、相手が僕のようにそこそこの潔癖症であるかもしれないと考えれば、なおさらである。ベッドのことを考えるなら、シャワーやお風呂のことも考えることになる。ときどき風呂場がカビだらけの(特に男性の)家をみることがあるが、そんなのはロマンスどころの話ではなくなる。ロマンスのためには安心して入れるお風呂場であるべきである。またきれいなだけでなくて、生活感もある程度排したい。洗剤やスポンジが真っ先に目につく浴室はちょっとこう盛り上がらないものがある。しまうなり、目についても良い気配にするなり、工夫したくなるだろう。そして匂い。自分では慣れて気づかなくなりがちだが、入った途端にその人の匂いでいっぱいの部屋というのは居心地が悪い。人の脂の匂いも、なんだか良くわからないものの不快な匂いももちろん嫌だ。ちゃんと掃除して洗濯するという習慣で、部屋の中には居心地の悪くなる匂いがないようにしたい。芳香剤でごまかすのは、言語道断である。安っぽいから。

 

そんなこんなで「レストランに行くよりも安くすむかもしれないからシャンパンを買って自宅で飲もう」と考えたとたんに、サステイナブルなロマンスの環境を作る羽目になる。それが良い。というのがこの話の結論である。部屋に呼んだり、呼ばれたりした途端に消えるロマンスはうちに持って帰って来られない。素敵なレストランで素敵な食事はとても良いが、そこからの続きには自宅になる。そこで冷めたりしないように、自分の日常にロマンスを持ち込める環境づくりのきっかけとして1万ちょっとくらいするシャンパンを買って冷蔵庫に入れる、というのは、実に安いお得な行為だと僕は思う。

愛では足りない

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 豹柄の服を上下に身に着けて、だみ声のパンチパーマみたいな髪型をした小太りのおばさんが「いやぁ、セックスしたいわぁ。抱かれたいわぁ。激しく」と言ったとして、または小学生が元気よくキックすれば背骨から折れそうな細く痩せこけたおじいちゃんがビブラートがかかっているかもしれないか細い声で「おめこしたい……」と呟いたして、それを笑うな!という話をしたい。

 

 老若関係なく、誰かと付き合い始めたり、結婚したりするとき、またはその渦中にいるとき、このような不安や疑念が心中に湧くことはないだろうか?「いつまで異性として相手を認めあえるのだろうか」と。おそらくだけれど、日本人は特に他国に較べて、時間が経過することで恋人同士ではなく、家族化してしまいがちに思う。他国の文化に精通しているわけではないので歯切れは悪い。しかし聞き及ぶに、そう推測する。結婚後がわかりやすいと思うのだけれど、個人名のあった男と個人名のあった女性は、子供ができるとそれを契機に、ママになり、パパになり、そう呼び合う夫婦は少なくない。思うのだけれど、「ママ」や「パパ」を呼ぶ相手を抱けるだろうか。僕の感覚では、どうもそれは気持ちが悪い。「ママ」と囁きながら、セックスをするってちょっと可笑しい。近親相姦みたいだ。「パパ」だって同様だ。もちろんこれは子供の存在を前提にこのように呼び合っていることは承知している。しかしどうして名前のままではいけないのか。子供が男と女をパパ、ママと呼ぶのは分かる。子供にとっての唯一無二の父と母である。固有名詞と変わりない。しかし男にとって女はママではなく、妻であり、その前にひとりの女である。たとえ子育てにどれほどクタクタになっていようと、上下別々の下着を身に着けていようと女である。男も朝から晩まで歩き続けて足が臭かろうと鼻毛が出ていようとやはり本質的に男である。行為ではなく属性として「セックス(性差)」を軽視、いや無視しがちな傾向を僕はここに見る気がしている。

 

 余談だが、世の風潮にあてられてジェンダーの問題と言及したくなる。しかしジェンダーというのは社会的に形成される人工的性差を指す。それは時代や国によって変化するのである。僕がいまここで言及しているのはジェンダーではなく、セックス(行為じゃなく名詞。性差)である。口にしづらいということでなんでもかんでも男女差や性的アイデンティティについて語る時、ジェンダーといいがちに思うが、正確にはこれらのはなしはばっちりセックスについてのものだ。

 

 閑話休題というほどでもないが、話を戻す。夫婦が家族化して何が悪いと言われるかもしれない。もちろんそもそも夫婦は家族なのであるが、ここで言う「家族化」はこう定義しておく。男女が伴侶についてすでにセックス(こっちは行為)の対象ではなくなっていることを「もう家族みたいなものだから」と表現することがある。「恋人」としてのパートナーと「家族」としてのパートナーは意味が異なる。しかし「恋人」には未婚のニュアンスが含まれる。よって「伴侶がセックスの非対象化する」ことを「家族化する」と。

 

 さて、それの何が悪いのか。おそらくだが高度成長期に日本は生活の中心にストーリーよりも経済的発展、社会的成長というものを重視する傾向が強化された。日本の経済的高度成長は、プロダクトのクオリティとスピードとコストを追求することで達成したと言ってもそれほど間違いではないはずだが、その際、労働力たるわたしたち市井は、合理性を追求した。見合いで結婚し、団地に暮らし、男は猛烈に働き、女性は母として家庭を切り盛りし、学歴を重視して効率的に社会ヒエラルキーを形成していく。分業により効率化していく社会のなかで、恋人たちは、恋愛にストーリーを差し込むことを差し控えはじめ、ラブホテルを時間制で利用して、セックスをして帰宅する。父となった男は、妻が母となり家族化したことで行き場のなくなった性欲を性風俗で消化する。母となった女の性欲は、基本的に「貞操」という概念で抹殺されて、我慢のうちに無視される。このような流れのままその先端に私たちが今いる。おおむね変わっていない。ストーリーではなく効率を重視したシステムであった合コンが減り(たぶん減っている?)、そのかわりに出会い系アプリが台頭している(はず)。出会い系アプリの台頭はどうも日本に限った話ではないらしい。それはともかく男女の出会いとその後のセックス、はたまた結婚後の性欲処理すら合理性のもと効率化されているは現状も変わりない。そこにどんな弊害があるのか。その自問に答える前にひとつ問いたくなる。女はいつから女であることを許されなくなるのか。男はいつから男であることを許されなくなるのか。と。

 

 ここで冒頭の話を思い出していただきたい。おじさんみたいなおばさんがセックスしたがってはいけないのか。植物みたいにしょぼくれてしまったおじいさんがセックスしたがってはいけないのか。否。そんなわけないだろうと。私たちは、人権がどうのとか宗教がどうのとかいう社会属性を身につけさせられる以前にまずささやかな存在ながら人生をまっとうしている一個体である。つまり人間である。私たちはどのようにして生きていくべきか、という考察にまで足を踏み込むと哲学としての話になっていくが、ちょっとだけそれについ考えてさっと足を引っ込めようと思うが、幸福の追求であろうが、幸福とは?とちょっと考えてみるとそれは牧歌的な死に方、ではない。穏やかに死ぬことが幸福ではない。幸福とは、生きている時間の多くを楽しんで過ごすことである。マズローの欲求五段階説が指示すがごとく、社会の状況によって私たちが求めるは異なってくる。生きていくのがやっとの世界ではまず生きていくことを求めるし、その次には安全を求めるだろう。しかしどのフェーズでもやはり私たちは「楽しい」と思える時間を追求していると言って良い。さてそれを前提としたとき、男女がセックスをしたい思うこと、実際にすることを軽視したとき、生きている実感や男女としての充足感、またはパートナーであることの体感を得る機会を失っていくことは、けっして良いことではない。ながくなったが、夫婦の家族化の弊害はこれである。夫婦がパパとかママとお父さんとかお母さんと呼びあうのはおかしいのである。そして良くないのである。自分が本質的に何を求めているのか、ということを軽視してはいけないのである。

 

 ではどうすべきなのか。

 

 家族化した夫婦が恋人として相手を見るようにするのは、ものすごく難しい。じゃあ離婚すべきかとか浮気を奨励するのかといえば、そういうことではない。なぜならこの話の目指すところは、個体の幸福の追求である。離婚や浮気の先に幸福があるなら良いだろう。ある場合だっておおいにある。よって家族化してしまった夫婦がこれからどうすべきかケースによって大きくことなる。だからここで解決方法やそのヒントのようなものを提示することは困難である。しかし女や男が、社会的役割(それこそジェンダーである)に自分の本質を抑圧させてはいけないということは強く主張したい。

 

 かといって、性犯罪すら犯しても致し方ないということでは絶対にない。その幸福の追求の仕方は短絡的すぎるし、一歩うしろにひいてみただけで、被害者の深い苦しみと加害者の社会的制裁が視界に入ってくるはずである。性犯罪まで及ばずとも短絡的な性欲の解消として人格を軽視したアプローチも美しくない。相手の快楽と自分の快楽の最大公約を目指すのがあるべき姿であろう。

 

家族化した夫婦が、回復しがたい悲しい状況にいるということでもないだろう。ただただ自分が母や父であると同時に女や男であることを軽視することをやめて重視してそれについて考えるのが良いと言いたい。女が「セックスをしたい」と思ったり、口にしたりすることを色情魔みたいに言うことなかれ。男が「セックスしたい」と思うことを、スケベと蔑視することなかれ。蔑視するならば、性欲だけフォーカスして関わる相手の感情を無視した思考と行為である。姦淫とセックスは別である。姦淫することなかれはセックスをするなという意味ではない。若すぎるものたちがそれを希求することは抑制すべきものがあるが、もちろん結果に責任を取れないからだが、働き始めたら、誰だって希求して良い。難しかろうが、相手が依然として大切な存在であれば、互いのセックスを重視してどうしていくべきかを考えれば良いだけである。解答なき問題ではない。

 

また家族化していない夫婦であれば、一層に相手をセックスの対象としても大切にすべきだし、また自分自身セックスと対象たろうと努力すべきである。かけがいのない存在として大切するということだけでは足りないのである。相手をすべて受けれて一緒に支え合いながら生きていくといことだけでは足りないのである。魅力的な男であらんとすべきであり、魅惑的な女であらんとすべきであり、相手のこともまた継続的にセックスの対象として接したい。セックスと肉体的な行為として追求できなくなったカップルもいるだろう。年齢的な限界ということもあろうし、病気や肉体の問題によってかもしれない。その場合もあまり変わらない。セックスというものは、厳密に言えば、肉体的な行為以上のものである。性差を使った思考の交換みたいな部分がある。バクテリアですら、セックスに似た行為をするのだそうだ。子作りのためのものに限定したものではない。だからペニスをヴァギナに挿入することすなわちセックスではなく、もっと多くのものをセックスは含んでいる。手を繋いで一緒に眠ることだってセックスに相当する。

 

相手をサステイナブルに大事にし続けるということは、つまるところ幸福とは何かという考察を経由する必要があるのだが、社会的または宗教的バイアスをできるだけ排して考えみれば、自然と自分の性をないがしろにしないほうが良いという発見か回顧に到達するはずだ。そうして自分と相手の性を「大切にする」という好意に含めていくべきである。

内側のピンク

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 先日、地下鉄構内の階段を登っているときに、目の前を歩く女性に注意を奪われることがあった。別にミニスカートでパンツが見えそうだったということではなく。身ぎれいにしていてスーツやスカートにはあまりシワもなく、毛玉もなく、白いシャツに黒いジャケットに丈の無難なスカートに少しだけヒールがある革靴、ボブくらいの長さの髪もちゃんとしていてボサボサじゃなかった。どこに注意を奪われたのかというと手提げにして持っていた黒い鞄が内側だけ鮮やかなピンクだったことにである。他が全部地味というか無難に小奇麗なのに、鞄の内側だけピンク。アピアランスに手を抜かずにいる女性が、鞄の内側以外をできるだけ地味に抑えている、というところから、僕は勝手に色気を感じたのだろう。ステロタイプな妄想の「一見地味な女の子が実はドエロ」とそう遠からずだろうと指摘されても、ノーとは言えないし、ほとんどその通りである。どんな性格でどんな生活をしていて、実際(?)にエロいのか、エロくないのか、ムスリムの女性たちはヒジャブなどで隠したその下がとても派手だと聞いたことがあるが、それを連想しつつ、地味な下に派手な、またはラディカルな下着を着ているのではないか、ということについて刹那想像を逞しくしたわけである。

 

 そんな女性を街で見かけて、思い出したのが妻が伊勢丹だか高島屋の女性の下着売り場で見かけた女性たちの話だった。齢は三十から四十代くらい。皆、スタイルが良いわけでもなく、なんならややぽっちゃりしていると表現しても良いくらいの体格。平日の日中にデパートの下着売り場に来ているから、専業主婦かもしれない。そして服装は、正直それほどぱっとしないもので、高そうにも見えなかったそうだ。にもかかわらず、ぜんぜん安くないというかちょっと高めの、それもいくぶん派手な赤や紫などの下着を、これが良いとかあれが良いなどと和気あいあいに選び合っていたとのこと。それについて、妻と僕は、上着はゴージャスだが下着がつまらない女性と上着は質素だが下着がゴージャスな女性では、後者のほうが魅力的だよね、という結論に至った。むろん、上着がゴージャスで下着もゴージャスというのも素敵だし、上着や下着が質素だとして何も非難されるべきことなどなにもないわけだけれど、自分が好き好んで接するなら、どういう人が良いかと考えたとき、地味に見えるくらいの外見なのに、その内側に秘めた色気がある人って魅力的で、知り合いたいし、親しくなりたいと強く思う。

 

 それはエロスの本質に、隠れている部分を露わにしたい欲求というものがあるからかもしれない。我々がわざわざ身体の一部(それこそ文字にして「秘部」)を隠すのは、この露わにしたいという動機を形成するためかもしれない。解かれることを期待して作られる難しい謎、のように誰かに暴かれることを期待して隠されるものというのは、思うに人を魅了する力を内包するというか創り出す。誰かに気づかれないと成立しない隠蔽なわけだけれど、エロスに限らないが、同種の人間には、同種に気づく触覚があり(よくSFで隠れたエイリアン同士が自分たちを認め合うみたいに。漫画『寄生獣』みたいに)、相手の隠蔽とか謎に気づくものである。

 

 僕の親しい人になんだかむやみにモテる人たちがいるのだけれど、彼女ら(彼ら)は、フェロモンに似たエロスの気配を我知れず発してるのではないかと僕は勘ぐっている。フェロモンは、人間にはもうなくって(フェロモンの名残としてまだあるのはワキガみたい)、そのかわりもうちょっとメンタルな信号としてエロスは、同種を引きつける力として機能しているのではないだろうか。

 

 ともあれ、頑張れば解ける謎、人を選ぶ課題と解答、そういう機能のもと、外側が地味で、内側がピンクのような地味とは対象的な気質や性質というものの存在は、とても興味深く、色っぽく、魅力的である。そういう意味では、下着というものが担っている社会的に役割というのは、思いの外重要なのではないだろうか。また同時に人間性というか生き物としての深みというものも育成していくことも下着のように重要である。人に見えない部分が後になって大事になってくるという意味で人の内面と下着が、アナロジーとして結びついているわけだけれど、それらはつまるところどこに向けられているのかといえば、サステイナブルに人と自分を魅了し続けることではないだろうか。一回セックスしたくらいで満足されてはつまらないわけである。脱がして、脱がされて、さらに興味をもたれたいし、持ちたいわけである。更新されるエロス、と表しても良いかもしれない。それを支えるのは、たぶん生物学的な好奇心なのだろう。猫を(にかぎらず好奇心を持つ全ての生き物を)ときどき殺すかもしれないが、好奇心は、生き物としての面白みを獲得させてくれる。そして時折、街で見かけた地味で小奇麗にした女性の鞄の内側のピンクに興味を向かせる。

 

 しかし下着というテーマに、一度焦点を戻すと、これはおおむね女性の下着についての話になるのではないだろうか。男性が下着に執着していろいろと凝った下着への探求をし始める姿に、あまり色気を感じない。むしろやや引くものがある。清潔でシンプルならいいじゃないかなと。女性たちの意見を時折拝聴すると、男性のTバックも悪くないという話も出てくるのだけど、男性のTバックは、肉体美の補助線を強烈に引くという役割を担っているのであって、女性の下着が担っている嗜好・思考の発露、というのとちと異なる気がする。男は、女性を困惑させない無難な下着で十分なのではないだろうか。役割としては、男性は女性を見るほう、持て成すほうであり、女性は見られる方、もてなされる方だと僕は思う。もちろん「らしさ」が拘束に及ばなくて良いわけだけれど(女性は女性らしく、男性は男性らしくという強迫はつまらないし、ときに弊害になる)、おおむねそのほうが具合や収まりが良いだろう。男性に求められるのは、意外性のある高価な下着ではなく、意外性のある高価な下着を纏う女性をちゃんと評価するという気配りというか姿勢だろう。

 

 じゃあどんな下着がより望ましいという話は、人によるだろうし、思うところもあるが今回は割愛する。その代わりの余談をひとつ。先日、最近親しくなったある女友だちに会ってお茶をしたのだけれど、会う前からこんな下着の話していて流れもあって、その友人は、「今日は、黒いランジェリーを身につけています」ということを教えてくれていた。お茶をしているだけでは、本当に黒い下着を着ているのかどうか確かめようもないのだけれど、「今日は黒いランジェリーを身に着けてます」と教えていくれている女性と一緒に過ごすというのは、声を大にして言いたいのだけれど、ものすごく楽しいものである。服を着て、ハーブティだかなんだかしらないけれど、おしとやかに飲んで、他愛もない話に笑って、少し経ったら落ち着いて、トイレにちょっと席を外してという、その間、「このこは今黒い下着を着ていて、それを僕が知っていることを知っているのだ」ということを考えることの屈折した楽しさといったらない。ただお茶を飲むだけなのに。

 

 変な余談を挿入したために何が言いたいのか、だんだん見失いがちになってきたのだけれど、たぶんこういうことが言いたい。暴かれたい謎のように女性なら下着、男性ならより(女性だって内面が大事だからこの「より」をつける)内面を軽視しないこと、と暴かれてからまた興味が湧くような奥底を好奇心を使って育むことが大事だ。ということを鞄の内側がピンクってドキドキしたこと経由で開陳したかったわけである。

性欲の捜索願い

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 十代、二十代の頃には、悪友以上ドラッグ未満の煩わしき煩悩であった性欲も四十前後あたりから、ふとその所在がわからなくなることがある。昨日までそこにいたのに、目が覚めていつもどおりに過し、仕事の合間にふと息をついたときなどに「あれ? あいつ(性欲)どこ行った?」と気づく。探しても、なかなか見つからない。うっちゃって置くと、そのうちに帰ってくるのだけれど、それもいつの日かとうとう帰ってこなくなる。そして途方に暮れる。見慣れない服を着て出ていかれたみたいに。しかし、そこに注目すると、不在の存在感は少しずつ大きくなる。そして性欲ってどんなんだったっけ?とその面影がぼんやりしてくる。

 

 そういうことについてそこそこ不安を覚えますって話である。

 

 人生のトラブルの多方が、金と色恋なのだから、その片方の問題から開放されるのだから、むしろ喜ばしきことに思えるかもしれない。しかしなんとなく、直感的に「あったほうがきっと良いはず」という気分のほうが強い。経済や政治などのプラクティカルで触れられるほど明確なものは、その必要性を言語化するのは容易いのに対して、芸術の有用性は、どうしても歯切れが悪くなるのに似ている気がするからこそか。うまく言えないけど、有ったほうが絶対良い、そう直感は具申してくる。

 

 そこでちょっと考えてみることにする。考えてみるのは、1.性欲の存在意義(レーゾンデートル)、2.失うとどうなるのか、3.行方不明にさせずにずっと側にいてもらうためにできること、の3つ。

 

1.性欲の存在意義(レーゾンデートル

 ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』という本によれば、恋愛と贅沢が資本主義を形成してきた、というようなことが書かれてる(まだ読んでいる途中)。実際、宝飾品とかハイファッションブランドや高級車など、その産業を支えているものには、恋愛的な動機(つまり根源的には性欲)が大いに含まれていることは想像に難くない。異性に好かれなくても良い人間が、素敵だけどなかなか良い値段のする香水や数十万から数百万(リシャール・ミルとかになると桁がもっと増える)する腕時計をするだろうか。もちろん自己実現とかヴァニティとかいろいろ動機候補があるけれど、それでもやっぱりモテたい、素敵に思われたいという気持ちが、僕らの経済活動の原動力の、少なくとも一部は形成しているはずである。

 

 経済としてなかなか重要なファクターであるのみならず、けっこうシンプルに僕らの生活においてドキドキしたり、ワクワクしたりするこもごももまた性欲を滋養として生まれているはずである。電車の向かいの席に魅力的な異性がいたら元気になるし、そういう魅力的な誰かと親しくなりはじめたら、世界がより良くなっていくような単純肯定的な未来感に身を包まれるはずである。

 老人介護施設のなかで売春(といっても手を握って眠るだけ)を禁止した途端にバタバタと老人たちが死んでしまったなんて話を(たぶん渡辺淳一氏の話かなにか経由で)耳にしたこともある。トキメキとかドキドキとかは、思っている以上にずっと僕らの人生に大切なのだろう。結婚していようがいまいが、何歳だろうが、性欲を活力としたトキメキを求める力を見くびらないほうが良いはずで、それは目の輝きや肌の張りや明日への活力を作っている。

 

 だから性欲はあったほうが良い。

 

2.失うとどうなるのか

 それがともすると、減衰して霧散してしまう予感を感じるわけである。歳のせいなのか。夫婦仲が良くても、性欲なしであれば、そこには潤滑のような「てきとうにうまいこと収める力」が損なわれるのではないだろうか。異なる人間が一緒に生きていくなかで生まれるささやかながらも確固として生じかねない軋轢は、概ね満足のいくセックスで消化されえる。「だって好きだもん」という類の乱暴な好意で、小さな問題は看過されるそのダイナミズムってすごく大事である。マーケティングよりも単純に魅力がすごくある商品が上位にあるように、「だって好きだもん」という強引な力は、けだし世界を前に進める力がある。性欲を失うと、この「だって好きだもん」という力も失ってしまう。

 日本は、海外よりもずっと夫婦の「家族化」が顕著な国に思う。欧米諸国の文化のほうが、歳をとっても異性同士として付き合い続けるように見える。比較はともかくとも、夫婦はできるだけ長い間異性として付き合っていたほうが良い。上記の「だって好きだもん」力についても有効だけれど、その人自身から発せられるオーラというか気配にも女として、男として満ち足りていることが表に出る。

 それを根拠に思うのだけれど、パートナーがいなければいないで、性欲がなければ、やはりその人の魅力も一緒に減衰していくだろう。視座を外から移せば、人が魅力的に見えるか見えないかって、いいかえると「美味しそうかどうか」って感覚に近い。まだ口にしていないけど、きっと美味しいはず、という食べ物は魅力的で、人もこの人と親しくなったら、ワクワクドキドキしそうという気配がすなわち魅力ではないだろうか。その気配は、性欲がその人の哲学やら美学やら性癖やらスタイルを経由して表に出たものである。だから性欲そのものを欠いては発せられない。

 要約すると、性欲がないと人は魅力を失くすし、人生も味気ないものに変容してしまう、ということになる。けっこう大事なものだ。

 

 

3.行方不明にさせずにずっと側にいてもらうためにできること

 それは単純で、つまり「性欲というものを肯定した上でなおざりにしないこと」に尽きる。ハリウッドのセクハラプロデューサーの悪行露見とか多くのスキャンダルとかが、宗教的な先入観を強化して、「性欲悪し!」という思い込みかねないが、上記の通りすごく大事な活力である。だからそういう先入観をちゃんと一回捨てて、やらしいことをしたがたる自分というものをOKと受け入れることがイニシャルな要諦になる。みうらじゅんさんか中島らもさんのどちらかが言っていたけれど、当事者たちが合意なら全てノーマル(アブノーマルじゃない)。細かい例外を断ったりしないけれど、単純に自分にとって大切なものを大切なものとして認めることから始める必要がある。人口抑制機能など社会学的にはタブーというものも大事なのだけれど、それは社会にとって大事なのであって、個人にとってはそうではない。価値観というものは、ときどきリストラクチャーする必要がある。

 そうしたら次に、自分の性欲を(性欲と言うほど直接的なものでなくても良くて、ドキドキすること、ワクワクすることと言い換えてもよい)なおざりにしないように努めるに尽きる。「なおざり」とは、「注意を向けずにいい加減にすること」である。(ちなみに「おざなり」は「その場限りの間に合わせの対処」という意味。どっちもいい加減にするという意味だけれど、おざんりは多少は何かするのだが、なおざりは何もしない。)

 女性なら、どうせ誰にも見せないしとか考えて下着を疎かにしはじめるとたぶん近い将来、女ではなく「人」になっていく。男もそうで、異性に対してより良く思われたい、より良く接したいという気持ちを捨てるとやはり男ではなく、ただの「人」になっていく。つまり性欲を大切に扱うということは、自分を異性に対して魅力的になるように磨き続けることを意味する。太っているなら痩せたほうが良いし、いい匂いでいるべきである。本を読んだほうがいいし、楽しく生きていたほうが良い。ビジネスでの成功と性にまつわるいろいろとはトレードオフではない。スティーブ・ウォズニャックっぽく言えば、バイナルではない。パートナーがいようがいまいが、自分の考える理想の自分というものに近づこうとすること、それが性欲をなおざりにしないということになる。

 

 これはきっと自分個人の問題に終わらない。世の中に魅力的な人が増えれば増えるほど、世界は魅惑的なものに向上していくはずだから。

普通という名の鐘が鳴る

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 「普通ということについて書いて欲しい」という声をいただいたので書いてみる。

 

 結論から言うと私たちが「普通」と口にするときは、必ずそこに歪んだ思念がある、ということである。普通というものは存在するが実存はしない。数字のゼロみたいなもので、概念としては有用であり、存在しているけれど、実際には無い。無いことが有る。禅問答みたいになってしまうけど、この言葉なしではとても不便になる。しかしよーく目を凝らすと点描画みたいに緑に見えていたものが、実は青と黄色の点であるように、普通がないことに気づくことができるはずである。

 

 私たちは、「普通」という言葉を使うとき、見下すような視座から使うときと、自己肯定するときの拠り所として使うときの2つのシチュエーションがある。

 前者は「普通の人」などと口にするとき。自分たちは特別で、そうではない人々を「普通」でくくる。実際のところ、それがさして現実から遠のいていないことだって多々あるだろう。例えば芸能人同士の会話であれば、一般人のことを「普通の人」といえば、彼らとは明らかに異なるし、それに近い状況の会話もあろう。

 しかしその場合でも「普通」でくくった人々をよくよく観てみると、彼ら彼女らはほとんど普通ではないことが多い。というかどの側面を見るかによって変わってくる。容姿はかもなく不可もなく、収入もすごく多くも少なすぎもしない、中肉中背、でも性欲がすごい!という人もいるだろう。人の属性としてその側面などいっぱいあるので、何もかも平均値という人などおそらくそうそういないし、いたらその人は平均値すぎる異常値と言えるかもしれない。

 そもそも平均値というのも疑わしい値である。平均値の母数が正規分布なのかどうかだって確かめたい。よく三十代サラリーマンの平均年収なんて言い方を見受けるけれど、例えばサンプルが10人だったとして、8人が400万で2人が1,500万だとすると平均値は620万になる。10人中8人は「自分の収入は平均よりかなり低い」と感じるだろう。でも実際そういう歪みがあるはずである。また「サラリーマン」という属性を外した途端に数値も変わってくるだろう。雑誌やインターネットの記事に出てくる「平均値」に対して一回は疑ってみておいたほうが良い。そもそも母数の規模や選出をどうしているのかだって知らないままに私たちは普段から多くの「平均値」を見ているはずである。

 

 「普通」という言葉を遣うな!と言いたいわけではない。遣うたびに「普通」でくくった対象についてちょっと考える時間を設けられたいと言いたい。なぜなら次に語る2つのシチュエーションのうちの後者である「自己肯定するときの拠り所としての普通」がなかなか危険だからである。

 

 換言すれば、それは「常識」とも言える。みんなが当たり前だと思っていること、だと考えていること。その普通はなかなか怖い。例えばナチス(日本における人種差別よりわかりやすいだろう。でも日本人もまた結構な差別主義者であることが多い)。ナチスを私たちは、人間の歴史の直視しがたい汚点のように扱うが、彼らは選挙で選ばれた政党だったはずで、その是非はともかく彼らも彼らを支持した人々も、パラノイアではないという事実は、けっこう見過ごされている。つまるところ、それが私たちである可能性はおおいにあるわけである。精神異常者ではない人たちが、ユダヤ人に飢えた犬をけしかけて笑ったり、親の目の前で子どもを殺したりしていたわけである。もちろんナチスに限らずそんな歴史はいたる国々にある。十字軍だってひどいものである。彼らは、そのときそれが異常だとは思わず「普通」だと考えていたはずである。

 

 先日、邦題では「ドリーム」、原題では“Hidden Figures”という映画を観た。良い映画だった。人種差別が今よりも「あからさま」だった60年代にNASAで陰ながら活躍していた黒人女性たちの映画である。未だに人種差別はアメリカに根強く存在しているが、黒人(アフリカ系アメリカ人)を差別することが「普通」だったわけで、しかしちょっと立ち止まって自分で考えることができれば、いつの時代だろうが、それが普通だと考えるだろうか、否なんし普通ではない。それは変わらない。しかしみんながそう思うなら、それが普通になってしまう。社会の構造が多数が作り上げる圧力というものを含んでいるわけである。

 

 センメルヴェイス・イグナーツというハンガリー人をご存じだろうか。19世紀(たった200年前くらいの過去)の医師で出産で死ぬ母子の原因を接触感染だと看破した偉人である。医師たちに助産の際、手を洗うことを提唱するも理解されず、それどころか排斥され、終いには集団からボコボコにされて死んでしまう。そこまで否定された理由は、今まで産褥熱で死んでしまった人たちの死因が医師である、という事実を認めたくないというものだったそうである。今日では、それこそ「常識」であることが、たった200年前には常識ではなく、正しいことを唱えた人が殴打されて殺されているのである。

 

 そんなわけで、私は強く主張したいのだけれど、誰かが(そこには自分自身も大いに含む)「普通」という言葉を口にしたとき、常に注意深くなるべきだということである。それは本当に普通なのか。そもそも普通ってなんだ?という自問を自動的に発動されたい。

 例えばテレビである。過去と良く比較しているわけではないが、今の日本のテレビは私の目から見るといささか、いやかなり異常である。どのチャンネルをつけても情報番組はほとんど同じ事柄を同じように取り扱っている。加計学園とか森友学園、芸能人夫婦の不和、なんでも良いがテレビ局など関係なく同じアフェアを取り扱っている。正直おののく。でもテレビを日常としてみている人は、テレビが放送しているレベルであればある程度の真実が保証されている感覚が多少あるように思う。疑っていてもだんだんそれが常識になっているはずである。(「日本の」と断ったが、他の国のニュースはもっとずっと多岐にわたっているし、よりグローバルで、イギリスがスペインの、スペインがプエルトリコのニュースを報じている。しかし日本のニュースを観ていてもあまり他国のことを触れないし、いろいろな視点は提供してくれない。その様子は、まったく普通じゃなくて「異常」である。

 

 テレビ批判がメインテーマではない。ただの一例であるのだけれど、みんながそれを当然だと受けいれていても、何回かは疑って観たほうが良い。歴史を大いに鑑みて、疑ってみるべきだ。自分のことも含めて。そういいたいのである。

 

 その結果、煩雑な状況に自分は陥るかもしれない。でもやっぱり他者を人種で差別するのはおかしい。自分たちを擁護するために、自己肯定を脅かす、正しいことを唱える誰かを殴打して殺すのはおかしい。拠り所は、自分で考えて正しいと思えるかどうかということになるだろう。もちろん照らし合わせる自分が間違っていることだってある。だから教育というか教養は大切なのだけれど、それが故に歴史や知識を真摯に学ぶ必要があるのだけれど、まずは何より「一回、できれば数回、自分でちゃんと考える」ということをしたい。されたい。有名人が言うことを、いかにも正しそうな人がいうことを疑って自分で考えたい。とてもいい人そうな人であっても、その人の言うことが正しいかどうかは都度自分で考えたほうが絶対良いはずだ。センメルヴェイスは殺されるべきじゃなかったのだ。

 

 だから「普通」という言葉が出てきたら、いつだって警鐘として聞くべきなのである。

姿勢と値段

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 レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の中でよく覚えている1シーンがあって、それは、依頼人に会うためにホテルを訪れた探偵フィリップ・マーロウが、待ち合わせのバーへの移動中にホテルのバーに目を見張るようなブロンドの美人を認めるシーンである。その女性をつかの間見つめていると、彼女が誰かと会話して大きな口を開けて笑うのだけれど、その途端にマーロンは美女への興味を失う。

 

 高嶺が魅力なら、例え美女でも安っぽいと魅力がなくなってしまう。女性に限った話でもないか。男性にも当てはまるけど、資産家であろうと高価な腕時計にキズがつかないかどうか気にしていたりするとやっぱり安っぽい。ワインをまとめて買ったと思ったら単価を何度も売り主に尋ねたりするのも(先日ちょっとそういう方を見かけたのだけれど、何かしら事情があるのかもしれないけれど、傍目からはいくぶん)安っぽい。(その御仁の後には、来週もフランスだかスペインだかに行くのだけれどと言う暇があるのに試飲ひとつせずにワインを一本買っていくご婦人がいて、彼女はその中で一番安いワインを買っていった。そういうのもやっぱり安っぽいじゃないか。)

 

 安っぽいというのは、言い変えたほうがわかりが良いが「つまらない」ということである。美人なうえに、知的だったりすごく意地悪だったり車の運転がとても上手だったりするとものすごく興味深くなる。高嶺感が高まる。資産家なのに謙虚で知識が豊富で良い身体であるほうが「おもしろい」。

 

 人を見て「安い・高い」と感じることが多々あるのだけれど、それはそのまま「つまらない・おもしろい」という意味でもあるが、ではなぜそう言わないのかといえば、たぶんどこかでお金の気配が関わってくるからかもしれない。

 

 日本人は、お金のことを言うと卑しいと考える先入観を数百年規模で植え付けられて来ているから、お金をあからさまに扱うと眉間にシワを寄せがちな気がする。しかし能力があればある程度稼がないと(森の中で暮らしてそこから出てこないのであれば別かもしれないが)、大切な誰かが困ったときに単純に助けられない可能性が高くなる。子どもの能力やポテンシャルに相当するチャンスを与えず見送らざるを得ないことだってあるかもしれない。そして何より収入が高くなるほど、品性が高くなる傾向がある。コンビニでは、取っ手があるのにガラスに手をべったりつけてドアを開ける人が珍しくないが、高級なホテルでそういうことをする人は比較的少ない。バーでもラウンジでも誰も大声で会話をしない。もちろん金持ちでもゴミみたいな品性のかけらもない人間はごまんといる。本当に。でもお金がない人のほうが全体的に見れば品性とかマナーは低くいのは、否定し難いではないだろうか。本当にそうか否かということを問う積りが今はないし、その是非についても追求したいわけではない。ただ僕が人を見て内心で「安い・高い」と直感的に感じて、その言葉を遣う背景には、安いところでは粗野な人が多く、高いところでは品性が「比較的」高い人が多い、という経験がある。

 

 以上が前置きになるのだけれど、姿勢や歩き方が悪いと「安っぽく」見えちゃうよ、ということが今回語りたい主題である。服や靴、時計やバッグなどアピアランスにしっかり気やお金を使っても姿勢や歩き方が悪いと「安っぽく」なると僕は思っている。

 今から触れるとある店でみかけた一組のカップルについて前置きしたいのだけれど、彼らを何かしら糾弾したいわけでも非難したいわけでもない。隣の僕らにも他のお客にも迷惑をかけたわけでもない。何も悪いことはしていない。僕ら(というのは僕と妻)も彼らのせいで気分が悪くなったわけでもない。だから悪くいうような感じにはなると思うのだけれど、非難はしてない。そこは誤解しないで欲しい。と断った上で、

 店に入って彼らの隣に座るときに気がついたのは、女性の姿勢が良くないということだった。綺麗でタイトなワンピースを着ていて、少しミニスカートぎみになっていることもあってなかなか魅力的なアピアランスとも言えなくもないと思う。髪もちゃんとボサボサしたりなんてしていなかったし、臭くもなかった。姿勢以外は見た目は何も悪くなかった。しかし姿勢はゲームをしている中学生みたいに猫背だった。冒頭のマーロウではないが、なかなか興味が急減した。(妻といるのに他所の女に興味を持つことからして間違っていると言われれば、反論したいが僕は妻を愛しているが、目に入る女性を見ることを控えることはできないほど女の人が好きである。もう人格の問題であり、そこは是正するつもりがない。)蛇足を括弧で語ってしまったが、姿勢が悪いというだけで、安っぽそう=つまらなそう、なのである。

 次に気がついたのは、良席(そのときは奥側の席)に男性が座っているということである。若くもなく、四十代中盤から後半にかけた男性がである。しかもボッテガ・ヴェネタの財布だったから、ある程度金に余裕もあるはずである。若い女性を手前に座らせ、自分がしれっと奥側に座るというのは、こちらも「さもあらん!」とばかりに安っぽくみえる。

 

 その店は、人気の店で予約なしではあまり入れない店で、さほど高くないのにものすごく美味しく、そして接客も素晴らしいところだった。雑誌にもよく出ているのか若い女性客も多かったが、基本、お客さんは皆マナーをちゃんと心得ている人が多い。人気がゆえに多様なお客さんが来店するようになっていたのかもしれない。

 

 あらためて断るけれど、彼らを非難はしていない。だれにも迷惑はかけていない。勝手に男性が良席に座って、勝手に女性がそういう男性と一緒でもしかたないかなーと思わせるほど姿勢が悪かっただけである。僕が今回言いたいのは、彼女の姿勢を見て一緒にいる男性をみて、「さもあらん!」と思ったということである。姿勢が悪いと品性の低い男性と一緒にいるのが「お似合い」に見えてしまう、ということである。

 

 学校でも会社でもあんまり学ぶ機会がないが、姿勢や歩き方が、傍目に安い・高いを判断される材料になり得るんじゃないかな、ってことを言いたいのである。だからうちの中でも外でも姿勢は重視すべきである。しゃがみ方ひとつで、優雅だったり、がさつに見えたりする。ヒールは日頃から履きなれておいたほうが良い。ならばどんな姿勢が良いのか、ということになるが、それはもう「良い姿勢ってどんなんだろうか?」という目でリッツ・カールトンでもパークハイアットでも(帝国ホテルは人が多すぎるからお勧めしない)良いホテルのラウンジで行き交う人達やホテリエの所作をみていると自ずとわかってくると思う。たんなる安く見えないということ以上に、良い動きをする人は、示唆的で、それはやや色気も含んでくる。だから男女ともに良い姿勢であることを口臭と同じくらい気を遣ったほうが良いと僕は思っている。

 

 ちなみに先のカップルの男性は、お会計のときに大きな声で「すみませーん!」と叫んだ。居酒屋ならぜんぜん良いのだけれど、小さくも素敵なその店でそれはしてほしくない。他のだれもそういうことをしないように気を遣っている。声をあげるというとは、店の人が客に目を配りきれていないというような意味に取られるし、何より客も店の人たちもちょっとした目配せでやりとりすることに「自分が今素敵な空間にいる」ということを楽しむことができているのに、それをぶち壊されるからである。素敵な店は、店の人たちと客が一緒になって作るところがある。そういう店では「すみませーん!」と声をあげちゃいけない。空気を安くしてしまう。もちろん、店や周りが安くなるわけではない。素敵な空間に水を注さないでくれ、という意図で言っている。これは余談のパラグラフだけれど。でも強く言いたい。強く言いたい余談である。

 

 寝相なんてどんなにひどくても許されたいし、許すべきである。いびきも。寝ている間に鼻をほじってもである。でも起きているときであれば、きりっとした姿勢でいたいし、いて欲しい。綺麗に歩いて欲しい。誰も見ていなくても。自分は見ているから。自分が自分を素敵であると思得る根拠を増やすことはとても良いはずである。