シャンパンとホテルとそのあいだのこと

シャンパンとホテルと色恋についてのブログ

普通という名の鐘が鳴る

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 「普通ということについて書いて欲しい」という声をいただいたので書いてみる。

 

 結論から言うと私たちが「普通」と口にするときは、必ずそこに歪んだ思念がある、ということである。普通というものは存在するが実存はしない。数字のゼロみたいなもので、概念としては有用であり、存在しているけれど、実際には無い。無いことが有る。禅問答みたいになってしまうけど、この言葉なしではとても不便になる。しかしよーく目を凝らすと点描画みたいに緑に見えていたものが、実は青と黄色の点であるように、普通がないことに気づくことができるはずである。

 

 私たちは、「普通」という言葉を使うとき、見下すような視座から使うときと、自己肯定するときの拠り所として使うときの2つのシチュエーションがある。

 前者は「普通の人」などと口にするとき。自分たちは特別で、そうではない人々を「普通」でくくる。実際のところ、それがさして現実から遠のいていないことだって多々あるだろう。例えば芸能人同士の会話であれば、一般人のことを「普通の人」といえば、彼らとは明らかに異なるし、それに近い状況の会話もあろう。

 しかしその場合でも「普通」でくくった人々をよくよく観てみると、彼ら彼女らはほとんど普通ではないことが多い。というかどの側面を見るかによって変わってくる。容姿はかもなく不可もなく、収入もすごく多くも少なすぎもしない、中肉中背、でも性欲がすごい!という人もいるだろう。人の属性としてその側面などいっぱいあるので、何もかも平均値という人などおそらくそうそういないし、いたらその人は平均値すぎる異常値と言えるかもしれない。

 そもそも平均値というのも疑わしい値である。平均値の母数が正規分布なのかどうかだって確かめたい。よく三十代サラリーマンの平均年収なんて言い方を見受けるけれど、例えばサンプルが10人だったとして、8人が400万で2人が1,500万だとすると平均値は620万になる。10人中8人は「自分の収入は平均よりかなり低い」と感じるだろう。でも実際そういう歪みがあるはずである。また「サラリーマン」という属性を外した途端に数値も変わってくるだろう。雑誌やインターネットの記事に出てくる「平均値」に対して一回は疑ってみておいたほうが良い。そもそも母数の規模や選出をどうしているのかだって知らないままに私たちは普段から多くの「平均値」を見ているはずである。

 

 「普通」という言葉を遣うな!と言いたいわけではない。遣うたびに「普通」でくくった対象についてちょっと考える時間を設けられたいと言いたい。なぜなら次に語る2つのシチュエーションのうちの後者である「自己肯定するときの拠り所としての普通」がなかなか危険だからである。

 

 換言すれば、それは「常識」とも言える。みんなが当たり前だと思っていること、だと考えていること。その普通はなかなか怖い。例えばナチス(日本における人種差別よりわかりやすいだろう。でも日本人もまた結構な差別主義者であることが多い)。ナチスを私たちは、人間の歴史の直視しがたい汚点のように扱うが、彼らは選挙で選ばれた政党だったはずで、その是非はともかく彼らも彼らを支持した人々も、パラノイアではないという事実は、けっこう見過ごされている。つまるところ、それが私たちである可能性はおおいにあるわけである。精神異常者ではない人たちが、ユダヤ人に飢えた犬をけしかけて笑ったり、親の目の前で子どもを殺したりしていたわけである。もちろんナチスに限らずそんな歴史はいたる国々にある。十字軍だってひどいものである。彼らは、そのときそれが異常だとは思わず「普通」だと考えていたはずである。

 

 先日、邦題では「ドリーム」、原題では“Hidden Figures”という映画を観た。良い映画だった。人種差別が今よりも「あからさま」だった60年代にNASAで陰ながら活躍していた黒人女性たちの映画である。未だに人種差別はアメリカに根強く存在しているが、黒人(アフリカ系アメリカ人)を差別することが「普通」だったわけで、しかしちょっと立ち止まって自分で考えることができれば、いつの時代だろうが、それが普通だと考えるだろうか、否なんし普通ではない。それは変わらない。しかしみんながそう思うなら、それが普通になってしまう。社会の構造が多数が作り上げる圧力というものを含んでいるわけである。

 

 センメルヴェイス・イグナーツというハンガリー人をご存じだろうか。19世紀(たった200年前くらいの過去)の医師で出産で死ぬ母子の原因を接触感染だと看破した偉人である。医師たちに助産の際、手を洗うことを提唱するも理解されず、それどころか排斥され、終いには集団からボコボコにされて死んでしまう。そこまで否定された理由は、今まで産褥熱で死んでしまった人たちの死因が医師である、という事実を認めたくないというものだったそうである。今日では、それこそ「常識」であることが、たった200年前には常識ではなく、正しいことを唱えた人が殴打されて殺されているのである。

 

 そんなわけで、私は強く主張したいのだけれど、誰かが(そこには自分自身も大いに含む)「普通」という言葉を口にしたとき、常に注意深くなるべきだということである。それは本当に普通なのか。そもそも普通ってなんだ?という自問を自動的に発動されたい。

 例えばテレビである。過去と良く比較しているわけではないが、今の日本のテレビは私の目から見るといささか、いやかなり異常である。どのチャンネルをつけても情報番組はほとんど同じ事柄を同じように取り扱っている。加計学園とか森友学園、芸能人夫婦の不和、なんでも良いがテレビ局など関係なく同じアフェアを取り扱っている。正直おののく。でもテレビを日常としてみている人は、テレビが放送しているレベルであればある程度の真実が保証されている感覚が多少あるように思う。疑っていてもだんだんそれが常識になっているはずである。(「日本の」と断ったが、他の国のニュースはもっとずっと多岐にわたっているし、よりグローバルで、イギリスがスペインの、スペインがプエルトリコのニュースを報じている。しかし日本のニュースを観ていてもあまり他国のことを触れないし、いろいろな視点は提供してくれない。その様子は、まったく普通じゃなくて「異常」である。

 

 テレビ批判がメインテーマではない。ただの一例であるのだけれど、みんながそれを当然だと受けいれていても、何回かは疑って観たほうが良い。歴史を大いに鑑みて、疑ってみるべきだ。自分のことも含めて。そういいたいのである。

 

 その結果、煩雑な状況に自分は陥るかもしれない。でもやっぱり他者を人種で差別するのはおかしい。自分たちを擁護するために、自己肯定を脅かす、正しいことを唱える誰かを殴打して殺すのはおかしい。拠り所は、自分で考えて正しいと思えるかどうかということになるだろう。もちろん照らし合わせる自分が間違っていることだってある。だから教育というか教養は大切なのだけれど、それが故に歴史や知識を真摯に学ぶ必要があるのだけれど、まずは何より「一回、できれば数回、自分でちゃんと考える」ということをしたい。されたい。有名人が言うことを、いかにも正しそうな人がいうことを疑って自分で考えたい。とてもいい人そうな人であっても、その人の言うことが正しいかどうかは都度自分で考えたほうが絶対良いはずだ。センメルヴェイスは殺されるべきじゃなかったのだ。

 

 だから「普通」という言葉が出てきたら、いつだって警鐘として聞くべきなのである。

姿勢と値段

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 レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の中でよく覚えている1シーンがあって、それは、依頼人に会うためにホテルを訪れた探偵フィリップ・マーロウが、待ち合わせのバーへの移動中にホテルのバーに目を見張るようなブロンドの美人を認めるシーンである。その女性をつかの間見つめていると、彼女が誰かと会話して大きな口を開けて笑うのだけれど、その途端にマーロンは美女への興味を失う。

 

 高嶺が魅力なら、例え美女でも安っぽいと魅力がなくなってしまう。女性に限った話でもないか。男性にも当てはまるけど、資産家であろうと高価な腕時計にキズがつかないかどうか気にしていたりするとやっぱり安っぽい。ワインをまとめて買ったと思ったら単価を何度も売り主に尋ねたりするのも(先日ちょっとそういう方を見かけたのだけれど、何かしら事情があるのかもしれないけれど、傍目からはいくぶん)安っぽい。(その御仁の後には、来週もフランスだかスペインだかに行くのだけれどと言う暇があるのに試飲ひとつせずにワインを一本買っていくご婦人がいて、彼女はその中で一番安いワインを買っていった。そういうのもやっぱり安っぽいじゃないか。)

 

 安っぽいというのは、言い変えたほうがわかりが良いが「つまらない」ということである。美人なうえに、知的だったりすごく意地悪だったり車の運転がとても上手だったりするとものすごく興味深くなる。高嶺感が高まる。資産家なのに謙虚で知識が豊富で良い身体であるほうが「おもしろい」。

 

 人を見て「安い・高い」と感じることが多々あるのだけれど、それはそのまま「つまらない・おもしろい」という意味でもあるが、ではなぜそう言わないのかといえば、たぶんどこかでお金の気配が関わってくるからかもしれない。

 

 日本人は、お金のことを言うと卑しいと考える先入観を数百年規模で植え付けられて来ているから、お金をあからさまに扱うと眉間にシワを寄せがちな気がする。しかし能力があればある程度稼がないと(森の中で暮らしてそこから出てこないのであれば別かもしれないが)、大切な誰かが困ったときに単純に助けられない可能性が高くなる。子どもの能力やポテンシャルに相当するチャンスを与えず見送らざるを得ないことだってあるかもしれない。そして何より収入が高くなるほど、品性が高くなる傾向がある。コンビニでは、取っ手があるのにガラスに手をべったりつけてドアを開ける人が珍しくないが、高級なホテルでそういうことをする人は比較的少ない。バーでもラウンジでも誰も大声で会話をしない。もちろん金持ちでもゴミみたいな品性のかけらもない人間はごまんといる。本当に。でもお金がない人のほうが全体的に見れば品性とかマナーは低くいのは、否定し難いではないだろうか。本当にそうか否かということを問う積りが今はないし、その是非についても追求したいわけではない。ただ僕が人を見て内心で「安い・高い」と直感的に感じて、その言葉を遣う背景には、安いところでは粗野な人が多く、高いところでは品性が「比較的」高い人が多い、という経験がある。

 

 以上が前置きになるのだけれど、姿勢や歩き方が悪いと「安っぽく」見えちゃうよ、ということが今回語りたい主題である。服や靴、時計やバッグなどアピアランスにしっかり気やお金を使っても姿勢や歩き方が悪いと「安っぽく」なると僕は思っている。

 今から触れるとある店でみかけた一組のカップルについて前置きしたいのだけれど、彼らを何かしら糾弾したいわけでも非難したいわけでもない。隣の僕らにも他のお客にも迷惑をかけたわけでもない。何も悪いことはしていない。僕ら(というのは僕と妻)も彼らのせいで気分が悪くなったわけでもない。だから悪くいうような感じにはなると思うのだけれど、非難はしてない。そこは誤解しないで欲しい。と断った上で、

 店に入って彼らの隣に座るときに気がついたのは、女性の姿勢が良くないということだった。綺麗でタイトなワンピースを着ていて、少しミニスカートぎみになっていることもあってなかなか魅力的なアピアランスとも言えなくもないと思う。髪もちゃんとボサボサしたりなんてしていなかったし、臭くもなかった。姿勢以外は見た目は何も悪くなかった。しかし姿勢はゲームをしている中学生みたいに猫背だった。冒頭のマーロウではないが、なかなか興味が急減した。(妻といるのに他所の女に興味を持つことからして間違っていると言われれば、反論したいが僕は妻を愛しているが、目に入る女性を見ることを控えることはできないほど女の人が好きである。もう人格の問題であり、そこは是正するつもりがない。)蛇足を括弧で語ってしまったが、姿勢が悪いというだけで、安っぽそう=つまらなそう、なのである。

 次に気がついたのは、良席(そのときは奥側の席)に男性が座っているということである。若くもなく、四十代中盤から後半にかけた男性がである。しかもボッテガ・ヴェネタの財布だったから、ある程度金に余裕もあるはずである。若い女性を手前に座らせ、自分がしれっと奥側に座るというのは、こちらも「さもあらん!」とばかりに安っぽくみえる。

 

 その店は、人気の店で予約なしではあまり入れない店で、さほど高くないのにものすごく美味しく、そして接客も素晴らしいところだった。雑誌にもよく出ているのか若い女性客も多かったが、基本、お客さんは皆マナーをちゃんと心得ている人が多い。人気がゆえに多様なお客さんが来店するようになっていたのかもしれない。

 

 あらためて断るけれど、彼らを非難はしていない。だれにも迷惑はかけていない。勝手に男性が良席に座って、勝手に女性がそういう男性と一緒でもしかたないかなーと思わせるほど姿勢が悪かっただけである。僕が今回言いたいのは、彼女の姿勢を見て一緒にいる男性をみて、「さもあらん!」と思ったということである。姿勢が悪いと品性の低い男性と一緒にいるのが「お似合い」に見えてしまう、ということである。

 

 学校でも会社でもあんまり学ぶ機会がないが、姿勢や歩き方が、傍目に安い・高いを判断される材料になり得るんじゃないかな、ってことを言いたいのである。だからうちの中でも外でも姿勢は重視すべきである。しゃがみ方ひとつで、優雅だったり、がさつに見えたりする。ヒールは日頃から履きなれておいたほうが良い。ならばどんな姿勢が良いのか、ということになるが、それはもう「良い姿勢ってどんなんだろうか?」という目でリッツ・カールトンでもパークハイアットでも(帝国ホテルは人が多すぎるからお勧めしない)良いホテルのラウンジで行き交う人達やホテリエの所作をみていると自ずとわかってくると思う。たんなる安く見えないということ以上に、良い動きをする人は、示唆的で、それはやや色気も含んでくる。だから男女ともに良い姿勢であることを口臭と同じくらい気を遣ったほうが良いと僕は思っている。

 

 ちなみに先のカップルの男性は、お会計のときに大きな声で「すみませーん!」と叫んだ。居酒屋ならぜんぜん良いのだけれど、小さくも素敵なその店でそれはしてほしくない。他のだれもそういうことをしないように気を遣っている。声をあげるというとは、店の人が客に目を配りきれていないというような意味に取られるし、何より客も店の人たちもちょっとした目配せでやりとりすることに「自分が今素敵な空間にいる」ということを楽しむことができているのに、それをぶち壊されるからである。素敵な店は、店の人たちと客が一緒になって作るところがある。そういう店では「すみませーん!」と声をあげちゃいけない。空気を安くしてしまう。もちろん、店や周りが安くなるわけではない。素敵な空間に水を注さないでくれ、という意図で言っている。これは余談のパラグラフだけれど。でも強く言いたい。強く言いたい余談である。

 

 寝相なんてどんなにひどくても許されたいし、許すべきである。いびきも。寝ている間に鼻をほじってもである。でも起きているときであれば、きりっとした姿勢でいたいし、いて欲しい。綺麗に歩いて欲しい。誰も見ていなくても。自分は見ているから。自分が自分を素敵であると思得る根拠を増やすことはとても良いはずである。

心の鍛え方

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 前回、メンタルって大切ということを書いたので、今回はその鍛え方について書きたい。

 

 結論から言えば、「問題を発見して、それを単純化して挑みつつ、本を大量に読み、身体を鍛えて、たまに選んで人に会う」ということになる。分けて書くと

 

1.問題の発見 

 

2.単純化

 

3.本を読む

 

4.運動

 

5.人に会う

 

となる。

 

 そもそも「心を鍛える」というのは何を目指すものなのか。ということを先に明確にしておきたい。『岳』という山登りの読む人を元気にする漫画があるのだけれど、その17巻(18巻で終わり)にこういうエピソードが紹介されている。エベレストに挑むにあたって死を意識することも大事だが、それに囚われてはいけない、という格言めいた助言を補完するために紹介されたものなのだけれど、ある山で吹雪にあって下山できぬままに過ごすことになった二組があった。二組とも同じ山で同じ環境の元にあった。一組は、幾日も吹雪が去らない間、雪洞の中で皆「自分たちは生きて下山できるのだろうか、吹雪はいつ去るのだろうか」ということを考え続けて陰鬱と過ごしていたそうだ。手記により、それを知ることができた。もう一組(というか一人)は、「よく吹雪くねぇ」という体で、「何も考えずに」過ごし続けたそうだ。前者は皆死に、後者は前者の遺体まで回収しながら生きて下山したという話である。

 もちろんフィクションなのだけれど、なんとなく本当らしい気配がそこにあるように僕は感じた。心を鍛える、というのはこういうことなんじゃないかな、と僕は考えている。生き延びるための思考の在り方を身につける、ということだ。試合や勝負に勝つ、ということでも良いし、ビジネスで成功するということでも良いし、なんとかうまくやっていくということでも良いが、そういう主目的に対して、心の有り様を最適化させる……、いや「最適化」などと小難しく言わなくても良いだろう、「折れちゃわない」ということだ。しなってしまっても良い(一回逃げちゃっても、後退してもいいけど、先に進もう!という気持ちを持ち続ける)。

 

 僕は、レコード会社やカフェを経営してテレビにも良く出ている方の著書で、「落ち込んでも意味がない」という考えを読んで、しごく得心したのだけれど、それでも、ちょっとした刺激でミジンコにでもなってしまいそうなほど落ち込むことが多々ある。理屈でわかっていても、心がついてきてくれないのである。だから、やっぱり鍛える必要があるのだろう。

 

1.問題の発見

 AIに出来ないこととして、誰が語っていたのだけれど、それは問題を発見することなんだそうだ。AIは問題を解決することはできる。しかし問題を発見することは、人にしかできないそうだ。少なくとも、想定の中では。

 

 生きるのがつらいとか、死にたいとか、なんだかもう参っちゃいそうだとか、悪夢しか見ない等、人にうまく説明できないことに苦しむということは良くあるのではないだろうか。そういうときには、周りがやや恨めしく思うこともあるだろう。僕は、正直小学校に入ったあたりから40歳になるくらいまで、誰にもそういうことなく、無意識に心の中で「助けて」とつぶやいて過ごしきた。心理学まで専攻したのに、それがなぜなのか良くわからなかったし、だんだんわかってきても、理由が分かったところで、それからどうして良いかわからなかった。

 しかしその一方で、何を求めているのかは少しずつはっきりしてきた。それは「必死」だった。好きな漫画に共通していること、それはみな主人公たちが必死になって何かを得ていくということだった。そこをフィクションに求めてかりそめに満足したくない、という考えに、少しずつ固まっていった。

 ということで僕においては、問題は「どうやったら必死になれるのか」ということだった。バスケで全国優勝とか、ゾンビだらけ世界で生き延びたいとか、そういう理解しやすいものである必要はなかろう。個人的な問題なのだから、個人的で構わないはずである。

 

(少し話がながくなりそうなので、駆け足気味で以降書く。)

 

 

2.単純化

 問題を発見したところで、その問題事態があやふやのままであることも多いし、そもそもうまいこと言語化できないでいることも多い。言語化したところで、なんだか複雑だったりする。そういうときは、物事を気楽にしつこく分解して、すごくすごく単純化してしまうのが良い。英語をマスターしたいときに、まずは英語の本を一冊読んで読んでみる、とかまずは単語を10暗記してみるとか、とにかく成果がはっきりした課題にしてしまうのである。そうするとそれが短かろうが、低かろうが、確実に前進しているという実感を得られる。

 のみならず、一歩前に進むと見える風景が変わるのである。不思議な話、それがわずか1センチ程度の前進でも、前進してみると次の一歩がどこら辺に向けて降ろすべきなのかが見えてくるのである。だから複雑そうな問題を「要は」という乱暴な分解を施して、どこに向かって何をすべきかということを仮説で構わないので、決めちゃうのである。間違った1歩でも、進んでみると間違っていたことはわかる。何もしないと何もわからない。とにかくすごく単純化して、腰が重いなら重いぶんだけ、ハードルをさげる。1mmでも前に進むほうが、停滞しているより100%良い。

 

 

3.本を読む

 進み方とか進んでいる方向とかが正しいかどうかということを検証するには、知識が不可欠である。そして知識というのは、真摯に求めるぶんには、けっこう素直に得ることができる。単純な話、人より本を読めば良い。「幸せになる方法」という類の身も蓋もないような類の本でも、まあ良いと思う。読み始めは。でも多少でも慣性が味方につき始めたら、古典とベストセラーを読むことを勧めたい。自分の趣味を無視して。今の流行と昔の流行を読めば、その差を含めて、バランスを得られる。すると良書と悪書の差もだんだんわかってくる。時間のスクリーニングを経た古典とカッティングエッジな今耳目を集めているものを読めば、そうそう足元が狂わないじゃないだろうか。それにすごくシンプルである。kindleを使って読めば、スマホで読めるから、混雑した電車の中でも読める。その上、あと何分で読み終えるかも計算してくれる。

 

 余談だが、ビデオゲームの類は、本質的には人の前の向きな向上心を動機としている。「時間をかければかけるほどレベルアップする」のだから。それを数値化して明瞭にしているから心地よいのである。しかし現実もほんとうは遠からずで、たいていのことは時間をかけた分だけ上達すっる。私たちが生き延びるのに、必要なのは心の強さもあるが、それを形成するのも補完するのも知識である。だからゲームにかける時間と金を知識につかうのは良い。すごく単純に、心の鍛え方そのものも本から得ることができる。ネットからだったらより平易に得られるのでは?と考えるかもしれない。でもたぶんそれは違う。ネットで調べるのはすごく良い。それだけで得られる知識はいっぱいある。だけど何故かわからないが、本から得る知識は、食事のように血肉になりやすいように感じる。ある種、等価交換の感覚なのだろう。手軽に得られる知識は、身離れが易い。安い服は長持ちしない、みたいなところか。違うかもしれないが、直感的に本は、知識を得る果実としてはより良いものだと僕は思っている。

 

 

4.運動

 運動が身体に良いか悪いか諸説がありまくりなのだけれど、僕らの脳がどうやって発達してきたのかを鑑みると、運動するほうが普通なのだという観に至りやすい。心も脳も筋肉と同じで鍛えれば強くなるそうだ。一緒に鍛えたほうがバランスが良いじゃないだろうか。これもまた本を読めば、運動をすることのメリットがいろんな本で散見されるはずである。だから本を読めば読むほど運動をするように、自然なると僕は思っている。

 

 

 

5.人に会う

 本を読みまくって、運動していると、それらが個体の中で成長する知性であって、社会と相対した時のバランスが図られないままである。そういうデメリットが故にというよりは、人に会うととたんに「あ!そうなのか!」(ユリイカ!)という発見に出会うことがある。だから人に会うのはとても良い。でも本をいっぱい読みながらである。本を読んでいると知識のレベルが上がる。人より読めば、多少の差こそあれ、ゲームのように単純にレベルアップする。知識が。それにともなって世界が拡張する。空がなぜ青いのか知っている人がみると空としらない人が見るそれは、違う。そうしていると人の精度のようなものが少しずつ見えてくる。すると会いたい人がだんだんわかってくる。そして会うとかならず得るものがある。

 

 

 本を読んで、運動して、人に会う。それ以前に自分が何を求めているのか暫定的にでも発見し、そのためにすべきことを単純化する。

 

 

 そうすれば、人はたぶん、必ずより生き延びやすくなる。自分の心のうちから「助けて」という言葉が消えていく。酒やドラッグに逃げなくて済む。人と自分を較べてひがんだり、自慢したりしないで済むようになる。なぜなら本を読めば読むほど人生がどれほど短いものか、知るに至るから。長くなったけど、実行するのにそんなに難しいことではないはずだ。居丈高に聞こえたかもしれないが、実際ところ、僕はこれを僕に向けて書いた。

 

メンタルは肉体より大事だろう

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 日本人は、たぶんだけれどメンタルの部分を直視するのを、欧米人に較べて、避ける傾向があるように思う。心のケア、なんて受けなきゃいけないってことは、すでにメンヘラということになって、社会的に敬遠される存在と思われかねない、と考えているのではないだろうか。旧態依然にすぎるのでは?と思われるかもしれないが、実際のところ、思った以上に旧態依然であり、目に見えないからか、触れてはいけない領域として扱われている。

 

 という前提が、状況を悪いまま放置することになっている気がするのだけれど、私たちは、心を大切にするということをけっこうおざなり……というよりは、なおざりにしている。

 

 心を病んだしまったり、病んでしまった人を近くで見たことがある人は、分かると思うのだけれど、治すがなかなか大変である。何年もかかったり、なかなか完治しなかったり。そうするけっこうな寄り道をせざるをえなくなる。それを避けるために、まわりや常識に囚われず、せめて自分だけでも自分の心は大切にしたほうがぜったいに良い。

 もしもう病んでいるもしれない不具合を感じたら(肉体的に現れることもあるだろう)、複数の病院にいってみちゃったほうが良い。その際、病院や病気について、いろいろと自分で調べることも大切だ。『The Patient as CEO』の著者、ロビン・ファーマンファーミアンさんは、難病にかかって大変で、医者たちの言うことに耐えられなくなって、メディカルチームを解散させて、自分で徹底して調べてから、またメディカルチームを再編した。そうして治療法をがらっと変えて、日常的だった苦しみから開放されたそうである。だから、自分で徹底して調べるってことは大事で、医者が最新の情報に精通しているとは限らないのである。彼らは忙しすぎるかもしれないが、医療の常識はものすごい速さで変化している。そんなわけで調べて、複数の意見を聞いて、というのがとても良い対処だと思う。英語でよければ、興味深いアプリやサービスがいっぱいフォーブス日本版の10月号に載っている。

 

 もし病んではいないのであれば、日頃から心のことを大切にするように心掛けたほうがずっと効率が良い。太るのと一緒で、太ってから痩せるのはものすごく大変だけれども、太らないようにするのは、それほど大変ではない。同じように、心が参ってしまったあとは大変だけれど、参らないように心がけるのは、それほど大変ではない。

 

 タイトルでは、肉体より大事と謳ったが、心も身体もだいたい同じものだから、どっちも大事で、心を大切にするためにまず何よりも大切にすべきなのが身体である。ちゃんと寝て(7時間くらい)、毎日散歩するだけで、いろんな病気(肉体のものも含めて)を避けることができるようである。「そんな時間などない」といって、無理をして心がだめになってしまっては、仕事も家庭も結局壊れてしまいかねない。バフェットを読むまでもなく、ちょっとさきのことを考えてみたほうが良い。寝ないで頑張るのが一所懸命ではぜったい無い。あなたが生きるか死ぬかの手術を受けるときに、医者が壮絶な手術をいくつもこなして4時間しか寝ていない人だったら、絶対いやなはずである。良い仕事をする人は、ちゃんと寝ている。例え、秋元康がぜんぜん寝ていなくっても、だからと言って寝なくても良い根拠にしないほうが良い。ギリギリまで追い込んで見えるものもあるかもしれないけれど、たぶん違うと思う。ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、できるだけいっぱい笑って(作り笑いだっていいそうである)、運動をした上で、一所懸命になるべきである。

 運動に関しては、身体に良いのか悪いのか、諸説がありまくりなのだけれど、僕が読んだ『脳を鍛えるには運動しかない』は、なかなかおもしろく、それによれば有酸素運動36分を週6回だったかな? が最良だとか。いずれにしろしないよりしたほうが良いとのことで、僕は今暫定的にではあるが、ジョギングをできるだけ7キロ毎朝、週2回プール、月曜日の昼はボルダリング、月1、2回はキックボクシングのパーソナルトレーニングを受けている。

 思い込みもあるのかもしれないが、そして思い込みであっても、なんら問題ないのだけれど、やっぱり運動している方が、心が元気である。

 

 「我慢するのが正しい」という世界観は、僕らは教育の過程で洗脳されがちだけれど、できるだけ早々に捨て去ったほうが良い。ストレスというものは、だいたい良くない。適度なものは良いこともあるが、基本的に良くない。ストレスに勝つのは、使命感である。それがあれば、過酷な状況でもけっこう元気でいられる。とは言え、何も無理に過酷にならなくても良いはずだ。

 私はデザインの仕事をしているのだけれど、お客さんのひとつに残業をまったくさせない企業があるのだけれど、そこの企業の方々は仕事がすごく速い。その企業との付き合いから、私は仕事をちゃんと効率よく進めるには残業してはいけないほうが良いのではないか、と思うようになった。正解だと思っているのだけれど、それは過酷ではないはずで、でも一所懸命ではあり、そして良質な仕事をする環境でもある。だから、自分を追い込むのが理想の姿勢だという考えは、ちょっと違うかも?と思ったほうが良い。時間を制限することを「自分を追い込む」と言えば、そうなるけど、「徹夜してやりました!」という仕事は、私からするとクオリティに疑いの目を向けたくなるものでしかない。ちゃんと寝て、ちゃんと食べてやってくれた仕事のほうが信用できる。

 

 私たちは、思ったよりやっかいな思い込み教育を受けているので、都度都度疑ってかかったほうが良い。学校の教育というものは、むしろ疑ったほうが良いものばかりだと思っている。一方でリカレント教育という大人になってからの教育・学習がとても重要になってくるだろうと思っている。社会に出てからの方が、勉強すべきことが多い。たとえば、この「メンタルを大切にすべき」ってことなんて学校では教えてくれない。異性の口説き方も教えてくれないし、段取りについても教えてくれない。お金の扱い方、喋り方も教えてくれない。縄文時代についてなんて何一つ知らなくて良いが、明治前後の歴史はとても重要だし、アメリカがしてきたこともかなり知っておいた方が良いし、キリスト教の文化や脈絡を知っていると映画、文学、演劇など理解できる部分がすごく増えてくる。

 

 そんなわけで、心を鍛えるためには、いっぱい本を読んだほうが良い。それも読みたいものに加えて、他の人(尊敬できる人が良い)が読んでいる本も読みたい。小説から学術書、ビジネス書、詩などいろいろと広く。私たちは、フィクションや歴史などいろいろな視座から、世見や自分を見ることができるようになればなるほど、健全になり、且つ生きていることがおもしろくなっていく。

 

 心というものは、本当のところ世界の全部である。人からの心がなくなれば、この世界は消える。肉体も現身もみな心あって意味をなしている。なのに心を蔑ろにするのはおかしい。そして逆説的だけれど、心を鍛えるには、身体を鍛える必要がある。身体を労る必要がある。何はともあれ、ちゃんと寝ることであるし、それからちゃんと食べること。食べてもあまり太らないで済ませるために、筋肉をつけること。それから本をいっぱい読むこと。おもしろい人に会うこと。そしていっぱい笑うこと。

 

 あなたが元気なことで、救われる人もいるし、良い仕事が増えるし、世界はより良くなる。そのほうが良いでしょう。

 

 

Let's get physical.

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 世の中の人はおおむね忙しいから、運動をしている人は比較的少ないと思う。寝る時間を少なくともある程度確保したらもうあとは仕事かあるいは家庭への時間で24時間オーバー気味だと感じてしまうのではないだろうか。

 

 でも、「ようは」という視点で生命や人生を眺めると、それはスティーブ・ジョブズの言う「今日死ぬとして何をするのか」という自問と同じであり、ガンジーの言う「今日死ぬとして行動し」と同じなのだけれど、一等に大事なものは何か、と問えば、天涯孤独でないはとき、たぶん愛する存在たちであろうし、社会に対して使命を感じてる人たちであれば、その使命を考えるだろう。それは三日三晩寝ずにやれば守りきることができるものでは、ない。だいたいの場合は数十年大切にし続けなければならないだろう。自分ももちろんそこに含まれる。我なくして何を為すのか、というわけであるから、自分も大切にしなくてはならない。

 

 そう考えると肉体というものは、おざなりにはできないことになる。遠くまで進みたいと思うものが、例えば車に乗るとして、ガソリンや車の状態をおざなりにしては、進みたい場所まで進めないリスクが増えてしまう。

 

 だから身体は大事で、そのために運動すべし!と言いたそうで、ちょっと違っていて、運動を通して得る感覚のことを今日は述べたく、それは何かというと意外なことに、自分の輪郭に触れるような、アイデンティティに関わってくるのである、ということになる。運動は。

 

 どこまで走れるのか、どれくらい走れるのか、つらいのか、楽しいのか、走れば走るほど、思考は後景に溶け、自分の中心が身体に寄り添うように純化していく。それは、たぶん良いことなのだと思う。自分が生きていると感じることができる。

 

 僕は、さほど上手ではないのだけれど、ボルダリングというスポーツを週一楽しんでいるのだけれど、それは何も点けずに落ちてもさしてケガをしない程度の壁を登るスポーツなのだけれど、それをやっているとイメージした動きができない自分を知り、少しずつイメージどおりに動けるような成長も楽しめる。同時に、油断すればけっこうなケガもしかねないので、生命の危険(大げさに聞こえるかもしれないが、足を滑らせててしまえば、手がホールドから離れてしまえば、落ちてしまうという状況はなかなかの恐怖なのである。

 

 このスポーツの楽しいところは、まったくもってどうやったらできるのかわからないという課題が、出来るようになるという小さな経験を積み重ねられるということである。「私には無理!」というのは課題は優しすぎ、優しすぎるくせにぜんぜんわからない!わかってもなかなかできない!というフィジカルをともなったメンタルの経験は、自分の生命に対して、ある種のタフネスを与えてくれるようになる。

 

 肉体と精神のつながりをリアルに感じるようになる。健康至上主義を謳いたいわけではない。自分の限界を知り、それが拡張されていく実感は、心にエールを送ってくれる、それはゲームのように研鑽したぶん実直に成長を保証してくれるかに見え、やった分だけってこともなく、保証がないのに、ある種の予感だけたよりなさげに与えてくれて、それをちょっと馬鹿みたいに信じたときだけ、成長が気まぐれに顔を出してくれる。

 

 知性、知力の鍛錬に読書や勉学が有効ではあろうけれど、あべこべにおもうところがなんとなくあって、知性を磨くのに肉体を、肉体的な進歩・改善には知性が、役立つ、という具合があるように感じる。『The Patient as CEO』という本を書いたロビン・「ファーマンファーミアンという若い女性は、自分のクローン病に苦しみつづけた結果、自分で医療の最先端を研究しはじめて会社までつくってしまっている。

 

 

 自分で書いていて、そこそこ意外な結論になったのだけれど、欲しいものと違うものとこらから得るものを重視したほうがいいじゃないか、という結論を述べたい。仕事の知識が欲しい時、フィクションとか科学や宗教の本から学ぶことがありえるし、運動について何をえたいとき、経営学から得るられることがあったりする。たぶんそういうことをすると自然、視野が広がるのだろう。だから忙しい人ほど、僕はなんとなく運動をしたほうが良いように思う。それが健康に良い悪いということではなく。

 

 僕らも愛おしい人たちも嫌いな人たちも皆、死ぬ。その事実は、生命の密度を高めてくれるのだけれど、肉体の主張は、自分たちの輪郭と現状や限界を浮き彫りにしてくれる。触られて自分の身体の温度を感じるように。世界と自分の境界線を知り、それが広がる感覚は、けっこう生きるヒントを僕らに与えてくれるんじゃないかと思う。

 

愛の有り様について

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 写真の左側の猫は数年前に死んでしまっていて、右側の猫は今もそこそこ元気に生きている。死んじゃった猫は、生きているほうの猫が産んだ雄の猫で、14年ちょっと生きたんじゃないだろうか。死因は、癌かなんかで、見つけたときはもう肺に転移していて、治療は不可能みたいだとわかってからは、病院についれていくのをやめて、うちで過ごさせた。あんまり動けないのだけれど、死ぬちょっと前まで食欲だけはあって偉かったなぁと記憶している。そして母猫のほうは、ずっと彼の側にいた。

 

 別に悲しい話をするつもりもなくって、感動するような話をするつもりもたぶんない。すっごく当たり前のことを改めて話して自分でも整理をしておきたい、っていうのが今回の趣旨で、それは何かというと、みんな死ぬということである。それと、それに伴って日々油断なく覚悟を決めておいたほうが良いということとある程度、具合の良い塩梅で諦めることも必要だ、ということも追加したい。そういう話をしたい。

 

 

 まず、「長生きをすることが最優先」というわけじゃないよね、と僕は考えている。無論、できるだけ長く生きたいし、大切な存在たちにはできるだけ長く生きていて欲しい。しかし、先の猫、名をカントと言う、の話になるけれど、彼の病についてしったとき、僕と妻は、何が最善かを考えた結果、余命はできるだけ穏やかにしてやりたい、ということだった。病院に行くのはカントにとってとってもストレスだったので、できるだけ連れて行きたくなかったが、治るのであればやむを得まいとは考えていた。治るかわからないができるだけ治療してみる、という選択肢があってもそれは選ばなかっただろう。病院に1日預けるだけでも、心が痛んだのは、猫たち自身には「治療するためだから致し方ない」という認識はないはずで、ただただ不安の中に身を置かれる時間を過ごすことを意味している。だからカントの寿命が1ヶ月伸びるよりも、母猫と我が家で過ごす時間を増やすことを重視した。

 

 猫が死んだあと、まあ考えるのは、彼は幸せだったろうか、彼との接し方はは最善だったか、ということである。それが例え指して意味や生産性のない自問だとしても。尺度がないから測りようはないが、僕はカントが生きているあいだ、できるだけ常にカントがいつか僕より先に死んでしまうことを忘れずに接してきた。だから、それほど後悔の余地はないで済んだ。幸せだったかどうかなど、猫にそもそも幸福の概念があるかもどうかもわからないから、判然としないし、そもそも人についてですら、その人生を締めくくったときに、それが幸福だったか否かを考えるのって、あんまり意味はないんだろうなと思うに至った。

 例えば、死に際が大事か、どうかについて。僕ら死を知らぬ者たちにとっては、できれば死ぬときには「ああ、良き人生だった。一片の悔い無し」と思って生命を終えたいと希望するのではないだろうか。おおむね。でも、合計して考えるなら、死に際が穏やかであるかどうかってことでいうとそこだけで人生のクオリティを判断するものではないはずであって、例えばモーツアルトにしろ、サグラダ・ファミリアのガウディにしろ、ひどい死に様だったけれど、それが彼らの存在に影を落とすかというか、そんなんでもないんじゃないかな、と。

 

 とすれば、大切なのは、概ね重ね続ける「今」なんだろうな、と漠然と暫定的に仮定したい。これを書いている「今」であり、これを読んでいただいている「今」であり、要は、その重ね方なんだろうと。映画のようにクライマックスがあるわけでもないし、あったところでそこだけ大事なわけではなく、ただひたすら、フィクションに較べて凡庸にみえる「今」が大切であり、且つ刹那的であれ!というわけでなく、重ねていうが、その「重ね方」が大切であって、どう重ねるかといえば、希求したい事事に向かって重ねんとする意思に沿って重ねたいわけである。

 

 だから僕らには、基本「夢」が必要である。企業であればヴィジョンに相当するが、何を目指して今日を過ごすかを規定したいわけである。

 

 そして雑に一番今回言いたいことを言うのだけれど、そのために「今考えられるベストを尽くす」ことが正解だということである。それは本当の最善策である保証はまったくない。全知識があることなどないのだから、最善かどうかなどわからない。今の自分で考えて行動するしかなく、それが後に最善ではないとわかったところで、後悔などしては間違いになる。更新された自分で次に判断するときのベストに活かす他ない。

 

 だから、必ず間違えるだろう自分を許したいと思う。許しながら、自分と大切な存在を、死ぬ存在であることを忘れずに接して、いつくしみたい。

 

 うちには、先の母猫の他、犬が二頭いる(「匹」と呼ばないのは、町田康の影響)し、妻もいる。そして妻には、先に死なないでくれと言われているので、僕はそれを守れる限り、これから少なくとも猫一頭、犬二頭、妻一人の死を踏まえて生きていくことになる。さてそれは悲しいことだろうか。

 

 寂しくはあろうが、悲しいことに伏すのは、人生に対してややぞんざいな接し方なんだろうな、と考える。あとになって悲しむくらいなら、ちゃんとそれぞれの生命に直に接するべきなのだ。というのも悲しみにはいくぶんの「悔恨」が含まれているように思うからだ。それは言い換えれば、深く考えずにぞんざいに接していた、ことを意味する。

 

 未来の見えない、全能ではない、すべてを知っているわけではない僕らは、必ず、必ず最善ではない選択をすることになる。それは光の速度とか宇宙の拡張スピードとか、そういう摂理と同じものであって、そこにわざわざ悔恨を滑り込ませるのは、おこがましいことであって、手しているカードだけで、持っている知力だけで、「これが今の全力です」って自意識しながら、選択していくのが、僕は気持ちのよい生き方だと考える。

 

 

 僕は、死んだ猫の足音や鳴き声を今でも覚えているけれど、それは悲しいことではない。僕の人生に死んだ猫が大いに含まれて成り立っていることを嬉しく思う。そう考えてみて思うのだけれど、愛とは、暫定的に過ぎないベストを携えて、大切に思う存在に対峙するその姿勢である。

 生きている母猫に僕は24時間は遣えない。妻にも、友人にも、仕事にも、犬にも、肉親にも、24時間365日を遣えるわけではない。明確に時間配分しているわけでもない。でも、これが誠実だろうと思うのは、彼ら全員が、自分も含めてだけど、必ず死ぬってことを忘れずにいるということだ。できるだけ一瞬も忘れない。もしかしたら、それが「必死」の語源なのかしら。ともあれ、死が愛の存在を定義しているわけである。

 

 間違える自分を責めてはいけなくって、でも自分も他者も死ぬことはいつも念頭においておくべきで、それでいて湿っぽくなるべきではなく、密度高く慈しむべきなんだろうと思う。たとえ今、僕もあなたも間違いだらけだとして、後悔するのは人生に不誠実で、しょうがないから「今からできるベスト」を選択することにだけ全力を使うしかなく、それはとってもつかれるから、ちゃんと食べてちゃんと寝たほうが良い。

 

 きっと。

自己肯定がうまく出来ないで苦しんでいる人へ

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 先日自己肯定感が低い子どもについて触れた記事をちらっとだけ読んだのだけれど、もちろんちらっとしか読んでいないのでその記事については何も語れないのだけれど、この「自己肯定」についての思うところ、つまりタイトルにしている「自己肯定がうまく出来ないで苦しんでいる人へ」向けて、(タイトルが具体的なくせに)徒然と書かせていただきたいと思う。ブログのテーマ(ホテルとシャンパンのそのあいだ)からは、少し遠のいた話になると思う。

 

 自己肯定感というものの欠如、からすぐに思い浮かべるのは、「境界性人格障害」。所謂ボーダーと言われる人格障害で、その呼ばれ方をしたのは、比較的最近のはずで、それ以前に「ヒステリー」と呼ばれていた症状もたぶんこの人格障害に含む。これがどんな症状かというとけっこう本を読んだつもりではいるのだけれど、自分の中では判然とはしていなくて、正確性に欠けるだろうが、僕なりの解釈でボーダーについて説明すると

 

「母親が不幸な姿を子どもに見せつ続けることで子どもに発生し得る自己否定の自己イメージと自己肯定したい生きる力の間で揺れ動きながら人知れず、もがき苦しみ続けるしんどい世界を持ってしまっている人」ということになる。

 

 『境界性人格障害のすべて』という本に書かれていたと記憶しているのだけれど、ボーダーを作るのは簡単で、母親が子どもに自分の不幸な姿を見せていれば、子どもはボーダーになる、と。心のダイナミズムを想像すると、理解しやすいのだけれど、母親が「自分(子ども)が存在しているがゆえに」幸せではない、という姿が子どもの中にどんな世界を構築するのかというと、それは、自分を取り巻き、そして守ってくれる存在である母親が(「おまえのために苦労を厭わず頑張っている」「おまえがいるから、我慢している」という姿をみせることで)、ある意味逆説的に不幸であるという姿は、子どもにとっては、「自分は存在していてはいけないのではないか」という不安と「やっかいな自分はいつか捨てられるのではないか」という不安と「それでも生きたい!満ち足りたい!前に進みたい」という生命力が体内的に拮抗して暴れて、所在を見極められない、状態をずっと活性化させるものになる。「ボーダー」の本来の意味は、神経症統合失調症の間という意味なのだけれど、その辺は、興味ある方は独自で調べた方がより詳しく知ることができると思う。ここで言う幾つかの力の真ん中で揺れ動く、という意味での「境界」っぽい状態とこの名は無関係である。ただ本質は、こういうことだということを説明したいだけだ。

 

 存在していてはいけないかもという不安と存在していたい!生きたいという生命の力が拮抗していて簡単にどっちかにぶれ得る状態の中、生きる、ということを。

 

 傍目からは普通に立っている姿に見えても、実際のところ、倒れそうな状態のなか踏ん張って立っている、状態とも言える。ボーダーではない人が普通に一歩進めるところ、ボーダーはすごく踏ん張って一歩進めている。誤解されたくないが、ボーダーはそうではない人より苦しんで生きている可哀想な存在、ということを言いたいわけではない。ボーダーのみならず、たぶん人は多かれ少なかれ全員人しれない何かに苦しんだり、脚を掠め取られながら生きている。ある種の人の苦しさの理解の啓蒙ではない。では何が言いたいのかというと

 

 上記のような世界の中で生きている人がいたら、僕はその苦しみ知っているよ、ということである。言いたいのはほとんどそれだけである。多くの人は、それを境界性人格障害だと知らずに、「自分が悪い」と思いながらも、対処方法を知らないままにずっと生きている。これがけっこうしんどい。そして「自己肯定をうまくできない」「自己肯定感が低い」って、たぶんまさにこの状態に近い。だから当てはまる人がいたら、自分はもしかしたら境界性人格障害かも?と考えて調べてみたり、本を読んでみたら良いと思うし、自分ではなく我が子や友人や親に対しても同様で、やっぱり「もしかしたら」と思えたら、数冊本を読んでみることを強く勧める。

 

 この類の障害に関しては、つけ込んでくる悪徳ビジネスも存在しえるので(解決しづらい問題にはいつも悪が入り込みやすく、たとえをあげるとわかりやすいと思うが、それはアトピーと癌。それ故に高いリテラシーが求められる。だから)、できるだけ「本」を読まれたい。ネットではなく。複数の、出版社や著者の違う、本を。

 

 

 さて、そんな人格障害を紹介をするなら少しはその解決方法、治療方法のようなものを示唆くらいはするのか、と問われれば、一応イエスである。しかしその方法は、たぶんどの本にも書かれていない。治療がとても難しいということはよく書かれているけれど。そして僕がこれから語ることは、別に境界性人格障害に苦しむ人に向けてだけではなく、単純に自己肯定をうまく出来ないでいる人に向けての示唆でもある。

 

 もったいぶらずに結論を言うと、「強引に自分を肯定しようとし続ける」ということである。自己否定の自己イメージというは炎天下の砂漠を歩く人の影のように何をしようとずっとまとわりついてくるものである。学年テストで1位を取っても、インターハイに出場できても、営業成績で1位になっても、「偶然だ」「今だけだ。そのうち凋落を見ることになるかもしれない」等、言い掛かりのような不安を魔法のように練りだすことが可能である。努力で逃れられるかというとこれがまた難しく、自己イメージに「自分はダメな人間だ」というアイデンティが含まれているので、努力をする自分にブレーキをかけることもあるのだ。そして芳しくない結果を迎えては「ほらやっぱり自分はダメな人間なんだ」と安堵する。そして安堵の中嫌悪する。だから四の五の言わずに自分を肯定するのが、僕は一番良い。

 人生を賭して自分を好きになってくれる人が現れるのもありがたいが、自己否定の人間は、自分を好きになる人を結果見下してしまう。自分をダメな人間だと思っているから、自分を好きな人をそっち側に含めて見てしまうからだ。

 

 だからもう強引に自分への愛を育むのが良い。全肯定するわけである。もう強引に。寝坊しようが、朝までゲームをしてしまって会社を遅刻しようが、自分OK!と思うようにする。そんな簡単ではない。僕はElephant Loveの“モンキー”を何百回と聴いたけど、それでもなかなかぜんぜん自己肯定なんてできなかった。モンキーの歌い出しは「♪頭も顔も悪い 性格悪い いやすべてがだめ 愛もないし愛されてもいない でも自信満々幸せいっぱい」で、僕は人生を前に進める思想は「これだ!」と思った。でも正解、のはず。

 

 加えて媒介として必要なのは、必死になってみる、ということ。何に?という制限はなく、頑張らないと死ぬかも?って状態に持っていくのか、高みを目指すのかとかはどうでも良いのだけれど、人間、崖の端まで行くと生きる力が総動員される、ことが多い、と思う。

 僕自身、今ではすっかり自己肯定のハッピーライフというわけではない。見る夢のほとんどは相変わらず悪夢だったり、ときどき吐きそうになったりしている。でも、生まれて初めてのことだけれど、幸福というものの存在を認められるようになってきた。

 

 ともあれ、もしこれをここまで読んでいるあなたが、自己肯定できないで苦しみながら生きているなら、やっぱりこう伝えたい。強引に自分を肯定し続けて、そしてなんでも良いから必死になってみて欲しい、と。親を責めても1ミリを前に進めない。単にコルチゾールを多出させて終わるだけだ。不幸しか生まない。すべきことは、先のモンキーの歌詞みたいに、もう強引に無条件に自分を肯定するだけである。

 

 余力があれば、ちゃんと寝て(眠れなくてもベッドに入って)、7時間くらい寝て、有酸素運動をして、嘘でもいっぱい笑って、ちゃんと食べて、お菓子は控えめにして、そして好きな人がいるなら、またはできたなら、その人をできるだけ全肯定して欲しい。

 

 自分のことを肯定できる人は、不幸を生まない。僕らは、そこに近づくために、もがいて生きていると言っても過言ではない。サン=テグジュペリの言う「自分を完成させること」というのは、そういうことかもしれない(『人間の土地』にその表現がある)。強引って、ところが大事です。無条件。ちゃんとなになに出来たらとかじゃなく。今すぐ、自分にOKを出してあげること。それを続けること。そして勇気ややる気を生むための努力で補完してあげること。自分が好きになれないなら自分を好きな人から好きになるようにしてみること。ブラーブラーブラー。

 

 境界性人格障害というのは、有益な視座でもある。ADHDが才能のひとつであるように。学校や社会を基準に世界を規定するのはつまらないし、間違っている。それらは全部一過性の便宜上の尺度にすぎないし、それで図るのはアベレージに過ぎない。ブラーブラーブラー。